便所の怪

 昔、便所の怪談といえば「手」が出てくるのが定番だった。汲取り便所の深い穴の下から、にゅうっと長い手が伸びてきて、無防備な尻をなでまわす……という話だ。

 それが次第に「手」よりも「扉」「問答」のほうが注目されるようになる。「扉」の場合は、人が自殺したり殺された個室が使用禁止となり封鎖されるか、または無人なのになぜか扉が閉じてしまう。つまり開かずの便所となった……という話だ。「問答」はパターンが多い。

 例えば用を足していると「赤い紙やろか青い紙やろか」と声が聞こえる。赤と答えれば斬られて血まみれに赤くなり、青と答えれば血を抜かれて青くなる……という話だ。

 明治から昭和にかけて学校に便所が普及するうち、こうした要素が混ぜこぜになった怪談が広まった。例えば昭和初期、東京・世田谷の某小学校で起きたのは、こんな話。

 1930年6月中旬、この学校の校長のもとに、A子という8歳の女児が慌てて駆け込んできた。彼女は先ほど、B子・C子と三人連れだって便所に行ったのだという。

 A子とB子は先に用を済ませたのだが、C子だけがずっと個室に入ったきりだ。せっかちなB子が「まだいるの」と扉ごしに声をかけると、「ええ」と答えが返ってくる。しかしいくら待っても出てくる気配がないので、B子がこっそり扉を開けて覗いてみた。

「あら」こちらに背を向けたB子が声をあげた。中に誰も入っていないという。

「C子さんはあたしをだましたんですわ」と入ったB子も消えてしまったそうなのだ。

「そんなことはありますまい」。校長は笑い飛ばしたが、A子は本当だと譲らない。それなら実験してみようとA子を同じ便所の個室に入れてみた。おおかた便所の窓から脱出し、消えたと見せかけ自分を驚かせようとしているのだろう。

 女子児童の悪戯心にほくそ笑みながら、校長は「誰かいますか」と声をかけた。

「今入っています」。扉ごしに返答が響く。数分待ってから「まだいますか」と訊ねる。「ええ、まだいますわ」という声が聞こえた瞬間、校長は勢いよく扉を開けたのだが。

 見えたのは窓を抜け出そうとしているA子……ではなく、手だった。窓の外からこちらに向かって、白く細長い手が伸びていたのだ。なにかを掴もうとしていたその手は、こちらの気配に気づいたのか外へ引っ込んだ。床には、青ざめたA子が気を失い倒れていた。