昨年、1985年以来、38年ぶりの日本一に輝いた阪神タイガース。熱烈なファンが有名だが、彼らにひときわ愛されているのがミスター・タイガースこと掛布雅之だ。そんな掛布氏が田淵幸一とのエピソードや怒りに震えたある投手の言葉などについて語った。本稿は、掛布雅之『虎と巨人』(中央公論新社)の一部を抜粋・編集したものです。
田淵さんからもらったバットで
引退するまで素振りを続けた
私が入団した1974年のタイガースは、投の柱が江夏豊さんなら、打の柱は田淵幸一さんでした。田淵さんは1978年11月に西武にトレードされました。日付が変わった夜中に球団に呼び出される「非情の通告」。功労者に対する非常識な仕打ちに田淵さんは男泣きしました。私が同じユニホームを着てプレーできたのは5年間でした。
球団を去るときに「江夏もオレも出て行くけど、お前は最後まで縦縞のユニホームを着なければダメだぞ」の言葉をもらいました。あれほど美しい放物線のホームランを打つ打者は田淵さんを置いてほかにいません。王さんのライナー性の打球と違って、フワッと高く舞い上がって落ちてこない打球です。生粋のホームラン打者でした。そして、四番打者としての立ち居振る舞いのすべてを教えてくれた人でした。
私が遠征に必ず持参していた素振り用のバットは、入団1年目に田淵さんの自宅に食事に招かれたときに譲り受けたものです。部屋に入ると、バットが20~30本ぐらい並んでいたと思います。「好きなバットを持っていっていいから」と言われ、2、3本頂いたのです。
試合でも使いたかったのですが、普段使っていたものより0.5インチ長い34.5インチのバットを使いこなすことはできませんでした。でも、振れば風を切るいい音がします。何より、憧れの大先輩から頂いたバットです。素振り用にすることを決め、33歳で引退するまで、夜の素振りはそのバットを振り続けました。
田淵さんのトレードによって
「阪神の四番」を任された
田淵さんがトレードで出たことは、私の野球人生の転機となりました。いなくなって初めて、田淵さんという大きな温室の中で野球をやらせてもらっていたと感じたのです。四番打者の孤独、プレッシャーを初めて知ったのです。
私は入団3年目の1976年に初めて規定打席に達して、リーグ5位の打率3割2分5厘、27本塁打、83打点の成績を残しました。三塁のベストナインにも選ばれ、大きな自信につながりました。周りから見られる目も含めて、環境が180度変わりました。当時は四番の田淵さんという大きな柱がいるいない関係なしに、成長できたと錯覚していました。でも田淵さんという存在がなければ、もっと苦労していたはずです。