もしも、田淵さんがトレードされていなければ、私が四番を打つことはなかったと思います。体格から考えると、打率3割、20本塁打を毎年コンスタントに打ち続ける三番タイプでした。分相応の野球をしていたなら、もっと長く現役を続けていたでしょうし、違う野球人生があったかもしれません。どちらの道が良かったのか。

小さい体で無理して打った
ホームラン40本の代償

 ただ、無理して四番の打撃を続けたストレスは、グラウンド外でもありました。1983年は全130試合に出場し、打率2割9分6厘、33本塁打、93打点でした。3部門とも前年より数字が落ちていたため、契約更改ではダウン提示でした。今の時代なら間違いなく大幅アップです。その年、チームメイトの真弓明信さんは112試合の出場で打率3割5分3厘、23本塁打、77打点。首位打者となり大幅昇給です。

 真弓さんが上がるのはいいとしても、全試合に出場して、33本、93打点の私の給料が下がるのは納得できませんでした。球団社長に「それなら来年は110試合で契約してください3割5分を打ちます。その代わり、ホームランは20本までです」と。「そんなこと言わないでくれよ」と困惑していましたが、自分のやっている野球を理解してくれないもどかしさがありました。

 左打者には不利な浜風が吹く甲子園球場で、私のサイズで40本のホームランを目指すには、体にかなりの負担がかかります。これは負け惜しみではなく、当時は常にタイトルを争っていた山本浩二さんの広島球場や、甲子園以外の球場では打球を上げさえすればスタンドに入る感覚でした。

 ライトに打とうとか、方向も考えず、センター方向に外野フライを打つ感覚でホームランになれば、これは楽です。川崎球場を本拠地に、1985年、86年にロッテで2年連続三冠王になった落合博満さんも、まさにそんな感覚で打っていたのではないでしょうか。