三四郎にとってこの池が特別な意味を持ったのは、そこに美禰子の姿があったからなのだから、ほんとうは「美禰子池」と呼ぶべきだろう。このような名前のつけ方にも男性中心のキャンパスとしての視点が表れている。

 池のほとりに立つ案内表示には、「この池の正式名称は『育徳園心字池』なのだが、夏目漱石の小説『三四郎』以来、三四郎池の名で親しまれている」とあるだけで、美禰子への言及すらない。

 そもそも東大のキャンパスには女性の名や功績を記憶するようなものは一切ない。

書影『なぜ東大は男だらけなのか』(集英社)『なぜ東大は男だらけなのか』(集英社)
矢口祐人 著

 1998年に東大の総合研究博物館で開催された特別展「博士の肖像」のために木下直之らが行った調査によると、東大には戦前から多くの男性の像や肖像画が作られてきた。

 各学部の研究室、会議室、廊下、倉庫などにあるものを含め、像主や作者が判明しているものだけでも、合計140以上の肖像画・肖像彫刻があることがわかっている。東大の教室内が男性の教員と学生の姿であふれていたのみならず、壁や廊下、庭にも男の顔が並んでいたことがわかる。

 いささかふざけた話になるが、大正期の東大本部には巨大な雄鹿の頭部の剥製が飾られていた(これは今日、総合図書館の記念室に残されている)。

 東洋の動物標本をイギリスに送った返礼として、1913年にイギリスのジョージ5世がウィンザーにある猟場で獲ったものが東大に寄贈されたという。剥製動物までオスだったのである。