2022年2月にロシアがウクライナに侵攻し、翌23年10月にはガザを実効支配するイスラーム原理主義の武装組織ハマスがイスラエルに対して大規模テロを行なった。その後、ガザ地区は人質奪還とハマス壊滅を目的とするイスラエル軍の攻撃にさらされ、住民の死者(コラテラルダメージ=副次的な被害)は4万人(うち子どもは1万人以上)を超えたとされる。日本国内では、中国と台湾の緊張によって、いまは「新たな戦前」だという不安も高まっている。
だがアメリカの経済学者・政治学者で、暴力・犯罪・貧困を研究するクリストファー・ブラットマンは『戦争と交渉の経済学 人はなぜ戦うのか』(神月謙一訳/草思社)で、シカゴのギャングからアフリカの紛争地帯まで自ら調査した結論として、「戦争は例外であり、通常は選択されない」と述べている。なぜなら、戦争のコストはあまりにも大きいから。「現実に起きた1つの戦争の裏では、1000の戦争が話し合いと譲歩によって回避されてきた」のだ。
だとしたらなぜ、戦争が始まるのか。それには「5つの原因」があるという。原題は“Why We Fight; The Roots of War and the Paths to Peace(なぜ戦うのか 戦争のルーツと平和への道)”。
「どのような不正義も、自分や家族が殺されるよりはマシ」
世界中の紛争地帯の悲惨な現場を調査したブラットマンは、日本や欧米のように「平和な社会」を当たり前のものとして享受するのは、とてつもないぜいたくだとして、次のように書く。これが本書のもっとも重要なメッセージだ。
社会の成功とは、あなたの11歳の娘が反政府組織によって妻という名の奴隷にされないことである。通り過ぎる車からの銃撃や流れ弾に怯(おび)えずに家の前に座っていられること。警察や裁判所や市役所に行けば曲がりなりにも正義を求められること。政府に、住んでいる場所から追い出されて強制収容所に押し込められないことである。
日本でも政治に対する不満が大きくなっているが、この基準で考えるならば、日本は十分に成功した社会だ。不安と恐怖のなかで日々を過ごし、安心して子どもを育てることができない社会に生まれたひとたちは、日本人(あるいは欧米人)は政治や行政への期待が高すぎると思うのではないだろうか。
ブラットマンのもうひとつの重要な指摘は、「どのような不正義も、自分や家族が殺されるよりはマシ」というものだ。「平和は必ずしも平等や公正を意味しない」として、こう説明する。
一方の側が交渉を有利に進める強大な力を持っていれば、自国の利益に沿った条件を設定できる。弱い国は自国の影響力や利権がわずかしかないことに憤慨するだろうが、不本意でも従わざるを得ない。世界はこうした残酷だが平和な不公平にあふれている。
この指摘は、香港や新疆ウイグル自治区の人権問題を考えるうえで示唆に富む。民主化運動や独立運動を「絶対的な正義」と見なすひとたちは、「戦争(内乱)」と「不平等な平和」の二者択一でどちらを選ぶべきだというのだろうか。
自分や家族が殺されることを考えれば、少数派は大幅な譲歩をいとわない。多数派にしても、いったん戦争になれば多大な犠牲を覚悟しなければならない。そう考えれば、そもそも戦争にならないことがデフォルト(既定値)だとブラットマンはいう。戦いが起きるためには、「妥協に向かおうとする正常なインセンティブを抑制し、通常の政治的論争から双方を引き離して、流血による交渉へと追いやるものが存在していなければならない」のだ。
だとしたら、それは何だろうか。ブラットマンは経済学のゲーム理論を使ってこの謎を解こうとするが、理論的な説明は本書を読んでいただくとして、ここではその概略を紹介しよう。次いで、「戦争を終わらせようとするのではなく、戦って解決させる方がよい」という“尋常でない主張”について考えることにする。