スタン・リーは新しく創設された小さなスタジオの責任者としてロサンゼルスに移ったのだ。そのスタジオをマーベル・プロダクションズといった。1980年にバラエティ誌に載った「所有する知的財産権を使った企画の開発を自ら行い、専門的な知識や技術を他社と共有できるのを、楽しみにしています」という広告とともに、新スタジオは業務を開始した。
ハリウッドへの挑戦と失敗
報われなかったリーの奮闘
マーベルが生まれて間もない頃は、リーが即興的な思いつきでキャラクターや物語を作り、それをカービーやディッコ、その他のアーティストたちが素早く絵に仕上げた。
リーは常に尽きせぬアイデアとストーリーテリングの泉であり続けたが、口八丁というだけで何かが起こせるほどロサンゼルスは甘くなかった。ハリウッドでスタン・リーの話を聞く者はいなかったのである。
1981年。CBS局の重役たちは、スパイダーマン単体では土曜午前のアニメ番組として主役を張る力がないと言い張っていた。そこで、新番組『スパイダーマン&アメイジング・フレンズ』では、アイスマンというミュータントと、ファイアスターという女性のヒーローを交えてチームを組むことになった。