バイク写真はイメージです Photo:PIXTA

1971年に放送開始された『仮面ライダー』では、主人公の本郷猛が悪の秘密結社ショッカーと死闘を繰り広げた。古今東西、人間はみずからよって立つ正義を旗印に戦ってきたものだが、本郷猛は違う。庵野秀明が丁寧にアレンジした『シン・仮面ライダー』を補助線にして、本郷猛と盟友・一文字隼人の物語を追う。※本稿は、河野真太郎『正義はどこへ行くのか 映画・アニメで読み解く「ヒーロー」』(集英社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

「仮面ライダー」シリーズは
日常との近さがポイント

 批評家の宇野常寛によれば、「仮面ライダー」シリーズは「リトル・ピープルの時代」のヒーローものである。曰く、『仮面ライダー』は超越者による状況介入ではなく、同格の存在同士の抗争として「ヒーロー」の戦いを再定義したのだ。言い換えれば、奇しくも、同年に結成された連合赤軍がそうであったように、『仮面ライダー』は「内ゲバ」としての─無数の「小さき者たち」の相互関係としての暴力(正義/悪)というイメージを提出したとも言えるだろう。

「仮面ライダー」シリーズ、とりあえずはそのオリジナルシリーズの『仮面ライダー』(1971~73年)の基本構図は、大学生にして科学者、有能なオートレーサーでもある本郷猛が、世界征服を企む悪の組織ショッカーに捕らえられ、バッタ人間に改造されそうになるものの、脳改造をされて良心を失う前に脱出、その後はさまざまな怪人を送りこんでくるショッカーと闘う、というものである。

「仮面ライダー」シリーズのポイントは、その日常との「近さ」であろう。特撮とはいっても、基本的にはDIY感のあふれる着ぐるみや化粧を施した俳優たちが、ごく日常的な環境で戦う。

「仮面ライダー」シリーズは常に、ライダーベルトをはじめとするグッズを一緒に売り上げてきている。もちろん「ウルトラ」シリーズやそのほかの戦隊ものなどもすべてグッズを売ってきたし、作品の商業主義を批判したいわけではない。そうではなく、仮面ライダーはそのDIY感が鍵だと思うのだ。

 こう言ってはなんだが、素人や子供がその辺で、買ってもらったライダーベルトをつけてライダーごっこをしているかのように、「仮面ライダー」シリーズそのものが作られているようにも見えるのだ。宇野が『仮面ライダー』がウルトラマンのような超越者の介入ではなく「小さき者たち(リトル・ピープルたち)」の同格の抗争であると述べるとき、まずはそのような表層的なものが説明されているだろう。

悪の秘密結社と戦いながらも
仮面ライダーは正義を掲げない

 より深層に関わってくるのは、「仮面ライダー」シリーズの善悪に関わる部分である。「仮面ライダー」シリーズは、現代的な陰謀論の枠組みを用意した。つまり、悪の軍団だと想定されるショッカーによって生み出された仮面ライダーは、(ここはバットマンに似ているが)善と悪の境界線にまたがったような存在なのである。