三田紀房の投資マンガ『インベスターZ』を題材に、経済コラムニストで元日経新聞編集委員の高井宏章が経済の仕組みをイチから解説する連載コラム「インベスターZで学ぶ経済教室」。第151回は「説明責任」について考える。
「説明責任」の本当の意味
投資部主将の重圧に耐えかねて失踪した渡辺は、何食わぬ顔で学校に戻った。投資部員の不満を聞いた前主将の神代は、個人には説明責任などないと断言。投資部員に求められるのはリターンだけであり、渡辺は「謝る必要はない」と説く。
世間では今どき何かと説明責任を求められる。政治家や経営者などを監視する枠組みとして重要であることは否定しないが、芸能人や一般人にまで適用範囲が広がりすぎて、現代社会の息苦しさにつながっていると常々感じている。
どのあたりに線を引くべきなのか。
説明責任を意味するアカウンタビリティー(accoutability)は会計(accounting)と同根の言葉だ。会計報告の役割は、預かったお金や資産の管理について、元の出資者・権利者に説明すること。個人が自分のお金をどう使おうが、誰かに会計報告する義務はない。
同様に、アカウンタビリティーは本来「代理人が委託者に対して背負うもの」だ。政治家と有権者、経営者と株主や従業員など利害関係者の関係を考えると分かりやすい。メディアも発信する情報について読者や社会全般に説明責任を負う。負託される権限・権力とセットで責任が発生する。
神代が指摘するように、自己決定権を持つ個人は原則、言動について広く世間に説明する責任など持たない。雇用契約や委託契約といった明確な枠組みがあれば話は別で、その範囲内では説明責任がある。だが、個人の言動において最も尊重されるべきはプライバシーを守る権利だ。
国民民主・玉木氏とミッテラン大統領の「対応の違い」
衆院選後に国民民主党の玉木雄一郎氏が標的となったように、政治家や芸能人が不倫をすっぱ抜かれると、記者会見を開け、謝罪せよ、説明責任を果たせ、と大合唱が起きる。
だが、公務に悪影響があったり、犯罪が絡んでいたりしなければ、不倫はプライベートな問題でしかないはずだ。家族との関係や道徳的責任も私的な領域にとどまるはずで、「外野」がとやかく口を挟むことではない。
フランスのミッテラン大統領が女性問題について記者から質問されて「それが何か?(Et alors?)」と受け流したのは有名な話だ。
週刊誌などの「スクープ」をもとにメディアやネットを不倫ネタが席巻するたび、「日本の社会はいつまでこの幼稚で残虐な『魔女狩り』を続けるのだろう」とうんざりする。最近、少しずつ「それはプライベートな問題だ」といった冷静な声が広がっているのは良い傾向だ。
半面、「情報を発信・拡散すること」については、個人であっても説明責任が求められる時代になっているのも確かだ。SNSを通じて不正確な情報やフェイクニュースが広がる過程では、起点となるインフルエンサーだけでなく、その取り巻きや野次馬も炎上に加担する当事者となる。
悪意の有無を問わず、SNSの利用は時に個人にも「メディアとしての責任」を迫ると認識しておくべきだろう。新聞記者を長年やった経験から言えるのは、その責任はズシリと重いものだということだ。不用意な発信でいらない重荷を背負い込むより、野次馬を決め込んでいた方が気が楽ではないかと思う。