幻肢痛のパターンを考えながらこのシュナイダー症例が頭に浮かんだ。どのパターンにしても痛みが発生するエリアは残った足の延長線上だということは、足はまっすぐ生えているものだろうという、客観的な事実かつ主観的な空間把握によってかなり限定されている。足裏型、局所発火型は痛みが走れば蚊に刺された時のように痛い場所へ無意識に手を運ぶこともできる。ということは、やっぱり本人の空間把握によって場所が決定している。
イメージしてみても
痛みの移動や分散ができない
痛みの発生する位置や重力でしなることを考えると、把握している空間は元々ついていた四肢の感覚に依存している。一方で、痛む場所までの間に物体があっても関係無いということは、客観的な空間から受ける影響はほぼ無いということ。ただし、しなる場合はベッドに横になっている時だけだから、これは身体の客観的な定位と関係している。ということは重力に影響されるなら、鉄棒とかにぶら下がったら幻肢はそのまま下に伸びるなんてこともあるのだろうか。
つまりは思い込み可能な環境を設定すれば、もしかしたらコントロールできるんじゃないだろうか。コントロールというか思い違い。
今のところ、自発的に痛みを飛ばそうとしてもまったく効果は無い。例えば数十メートル先に痛みを移動させたり、もっとふわふわと痛みのエリアを分散させたり。

青木 彬 著
今回のパターンの考察などは、北海道で活動する「浦河べてるの家」(編集部注/精神障害などを抱えた当事者たちの生活・就労・ケアの拠点)の当事者研究を参考にしている。当事者研究とは疾患の当事者が自分の変化を研究するというもの。統合失調症と呼ばれる状態にある人たちは、幻肢痛のように自己の知覚が肉体の存在から極端に収縮したり拡張されたりすることで、本当なら知覚できないような場所の出来事を認識してしまっているのではないだろうか。
幻肢痛ってなんだかロマンティックな比喩に使われる気もするけど、実際はまぁ確かに痛いし、個人差はあれど、これが何年も続くとか辛いだろう。でも、幻肢痛の場所が延長できたらどうなるのだろうか。認識の延長。
遠くの人を思いやる。存在感を消す。隣人を愛せ。渋谷は俺の庭。こういう所作や発言も認識の延長のひとつなんじゃないかとかも考える。
なんかこう、ロケットパンチ的に幻肢が突然飛んで行ったりしないかな。