
30歳の時に右足を切断し、失ったはずの手足が痛む「幻肢痛」を経験している著者。痛みだけでなく、「幻肢」=「存在しない右足」が物体や人に重なってしまう感覚もあるという。なぜ、そのような感覚が生まれるのだろうか?※本稿は、青木彬『幻肢痛日記:無くなった右足と不確かさを生きる』(河出書房新社)の一部を抜粋・編集したものです。
統合失調症の心的距離と
幻肢痛の類似性
入院前(編集部注/切断手術のため)に精神科医の友人と、統合失調症の心的距離と幻肢痛の類似性について話したことがある。実際に手術をして幻肢痛が現れたので、「無いものの存在」について語りたくて、病院に来てもらい雑談をしたのだった。
精神科医の彼との雑談は、幻肢も一種の妄想体験かもしれないということから始まった。まず、統合失調症の人は自我が短縮している状態だと解釈されるらしい。そこには常に他者との心的距離の変化が関係してくる。短縮したことで生じた本来の自我との差異が、幻聴などとして現れたりすると解釈されるそうだ。
本来は自分の自我で充たされているはずの輪郭があるとしたら、自我が小さくなってしまったことで輪郭との間に空白が生まれる。その空白が他者のイメージを伴って幻聴を誘発するというイメージだろうか。
一方、幻肢痛は他者との関係ではなく、自我と自分の肉体との物理的な差異によって生じる一種の妄想体験に近いのかもしれない……。

そんな幻肢痛と身体イメージという点で近いと思ったのは、絶食などの症状を起こすアノレクシア(神経性無食欲症)である。アノレクシアでは、どんなに痩せていてもまだ痩せなくてはいけないというネガティブな身体イメージがつき纏う。客観的なイメージとは別の、自身が求める身体イメージに支配されてしまっている状態だ。
それでは幻肢の理想的なイメージを求めることはできるのだろうか?
スラッと長い足、筋骨隆々な足、クネクネと曲がる足などなど……。幻肢の症状をポジティブな身体イメージとして想像することで、幻肢痛の緩和に繋がる糸口が見つかったりするかもしれない。
それと、もうひとつ面白い指摘が「幻肢痛に時間軸はあるのか」という投げかけだった。統合失調症の人は、よく未来に起こるはずのことを現在形で話したりするそうだ。時系列が混乱した状態は周囲から見れば不可解な言動かもしれないが、自我を現在にのみ存在させるのではなく、未来までを含めた時間軸の中で形成することで、自我の空白を保つ戦略なのかもしれない。
幻肢痛の痛みはどこから来るのだろうか。これまでは痛みが発生する場所やパターンを考察してきたが、痛みがやってくる場所には想像が及んでいなかった。痛みはこれまでの身体記憶の再生なのか、それともこれから起こることの予感が痛みとして現れているのか。