切断前よりも調子が良くなったのは、かばうべき右足が無くなったことと、炎症を起こしていた根源が無くなったことに尽きるのだが、そこにはもう少し「無いものの存在」を巡るあれこれがある。
それは、かばっていた右足は言い換えると「隠されていた右足」だったということだ。
成人してから会った多くの人が僕の病気や身体の状態をよくわからないまま付き合っている人たちだった。自分も右足について細かく説明もしなかった。お互いフラットに見えてこれが実はあんまり良くない状態だったのかもしれない。
足が「無い」ことを共有できる
切断したことで精神的な負担も軽減
今まで僕の右足は誰にも公開されていない存在になっていた気がする。かばうことが知らず知らず隠すことに繋がっていた右足。

青木 彬 著
そんな自分にとっても自分以外の“もの”のようななんとも言えない存在だった右足だが、切断を経て幻肢の存在によって二重の反転が起こった。
目に見えるけれども情報が公開されていなかった状態から、目には見えないけれど情報が公開された右足へと反転したことによって、隠されていた右足の存在は、他者と共有しやすいものになり、僕1人で抱える精神的な負担が大きく減ったのだ。だから自分にとってこれは欠損ではなく二重の反転による右足の置換である。
つまり幻肢は確かに(見え)無い足なのだが、僕にとっては「無い」という存在をみんなで共有することができるとても便利な概念なのだ。
見えていて隠されていた足を、見えなくて公開された足に置換したことで、行き場が無かったエネルギーがちゃんと循環し出した感じだ。
