また富本浄瑠璃の好調とともにその版元として蔦重の名は急速に浸透していったものと思われる。それに加えて、吉原発信の黄表紙、朋誠堂喜三二や恋川春町の戯作、そして狂歌熱の高まりとともに人気急上昇の大田南畝が関わった出版物、前評判のたねに事欠かない。賑やかに取り揃えたこの春の当世本出版は、すでに日本橋進出の目処が立っていた上での挙、前もって評判を煽るための仕掛けだったのではなかろうか。

 さて、蔦重が丸屋小兵衛から購入したのは不動産だけではなかったはずである。沽券、すなわち営業権ともどもであったと思われる。具体的には明らかにしがたいが、それは主に流通に関わる利権であったろう。問屋同士の交易、また絵草紙屋や行商への卸などに関わる地理的、また営業上の利便を獲得し、蔦重は名実ともに江戸の地本問屋となった。話題性に満ちて、最新のおしゃれ感で抜きん出る日本橋の蔦重店には、多くの新しもの好きの江戸っ子たちが訪れたことであろう。

戯作の人気作家の本が
ずらりと店頭に勢揃い

 蔦重の出版物には、往来物などの実用書のように堅実に経営を支えるものと、蔦重店の広告的効果を狙ったものとがある。後者については極めて戦略的である。天明3年の出版物が、当世流行の戯作や狂歌(編集部注/社会風刺や滑稽さを詠み、くだけた表現が特徴の短歌)の版元であることをアピールする気張った布陣であったこともそれである。

 天明5年(1785)正月の黄表紙(編集部注/戯作の草双紙の一種、大人向けの知的でナンセンスな笑いが特徴)出版にも演出が凝らされている。それは1冊もの袋入りの競演である。恋川春町作1点、朋誠堂喜三二作2点、芝全交(しばぜんこう)作1点、万象亭作2点、岸田杜芳(きしだとほう)作1点、恋川好町(こいかわすきまち/鹿都部真顔)作4点、唐来三和作2点、山東京伝作3点、都合16点で、画工は政美・政演・歌麿が務めている。これら美麗な上袋を掛けたものが店頭の台に並べられた光景はさぞかし見事であったろう。

 これに加えて、通常の3冊もの・2冊ものの黄表紙も喜三二・三和・好町等のものが多数出版されている。中でも注目されるのは、京伝の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』で、これは大変な評判作となった。京伝は、天明2年(1782)鶴屋喜右衛門刊『御存商売物』でその戯作の才能が認識され、南畝を中心とした狂歌・戯作の世界に取り込まれていった。そもそもその画才に期待していた蔦重は、この頃より京伝の戯作も熱心に手掛けるようになる。この年は京伝洒落本の初作『息子部屋』も出版する。