
NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公、蔦屋重三郎は遊里・吉原で生まれ育ち、出版の世界で身を立てた人物だ。通称「蔦重」と呼ばれる彼は、江戸時代に金融・商業の中心地だった日本橋に進出。後に歴史に名を刻む絵師、歌麿や写楽を見いだすことになるが、日本橋の店で力を入れていたのは、教養を使って笑いのセンスを競う戯作だった。近世文学の専門家・鈴木俊幸氏が蔦重と戯作家の関係を紐解く。※本稿は、鈴木俊幸氏『蔦屋重三郎』(平凡社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
蔦重店が日本橋に進出
吉原の広告塔にもなる
天明3年(1783)9月、蔦重店は日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に移転する。なお、吉原大門口の店は蔦屋重三郎の出店として存続し蔦屋徳二郎名義となる。徳二郎についてはよくわからない。曲亭馬琴の『近世物之本江戸作者部類(きんせいもののほんえどさくしゃぶるい)』に「天明中、通油町なる丸屋といふ地本問屋の店庫奥庫を購得て開店せしより、その身一期繁盛したり」とある。丸屋小兵衛の店を購求したものらしい。丸屋小兵衛は古株の地本問屋(編集部注/江戸で出版された絵入りの本を出版する本屋)であった。明和期まで紅摺絵や草双紙の出版を確認できるが、安永期の出版物は確認できない。営業をまったく休止していたのかもしれないし、小売営業だけ行っていたのかもしれない。
蔦重はその店と蔵とを買い取ったのである。富本浄瑠璃が好調であったりしたところで、また、蔦重店を訪れる客が増えたりしたところで、これまでの営業の積み重ねで、日本橋に店を構えられるだけの蓄財が可能であったとは思えない。吉原有力者の支援もあったものかと想像する。吉原にとってみても、吉原細見はもちろん、俄(編集部注/吉原俄、吉原で演じられた狂言)や燈籠の番付、また遊女の一枚絵などが並ぶ日本橋の蔦重店は吉原の広告塔の役割を期待できる。
流行に敏感な江戸っ子たちが
日本橋の蔦重店に殺到
蔦重の日本橋開店は、江戸市中の大きな話題となったはずである。そもそも地本類はすでに江戸っ子の自慢のたねとなっていたので、丸屋小兵衛に代わる新しい地本問屋の開店は、それだけで話題になったと思われる。それに加えて、吉原から江戸市中に進出してくる本屋の登場など前代未聞のことであった。そしてその本屋が、『碁太平記白石噺』に登場したり、最近何かと話題に上る蔦重なのであった。