
江戸のメディア王として名を馳せた蔦屋重三郎、通称「蔦重」は寛延3年(1750)に幕府公認の遊廓・吉原で生まれた。そこは性の歓楽街のみならず、「通」を競い合う流行の発信地。吉原よりも手頃に遊べる「岡場所」に客を取られ、吉原の客足が鈍った頃に蔦重は吉原の広告塔として活躍したという。NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』の主人公・蔦重が仕掛けたメディア戦略について、日本近世文学研究者の鈴木俊幸氏が解説する。※本稿は、鈴木俊幸氏『蔦屋重三郎』(平凡社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
とんがりすぎるのは
「いきすぎ」で野暮
江戸賛美の高揚感の中で生まれた美意識が「通(つう)」である。簡単に言えば、この時代の江戸という都市におけるおしゃれなかっこよさを表す言葉である。通な人は「通人」と呼ばれる。では何がおしゃれでかっこよかったのか。まず服装・持ち物・髪型などの外見に関わることであるが、これらはいずれも流行の中にあるものである。
衣類の流行色や柄、また丈などめまぐるしく流行りが移り変わる。煙管や煙草入れなども、流行の素材や仕立て方があって、通人御用達の店があった。髪型も、この当時は本多という結髪が全盛であるが、その本多にも品々ある。都市の流行は日々変化しているが、それに対応できていること、流行を絶えず意識していることが通とされる。これに頓着しない田舎侍などは野暮とさげすまれるのであるが、あまりとんがりすぎていても「いきすぎ」と言われて野暮同然の扱いとなる。
通をもっとも問われるところは遊びの場である。吉原が通を競う場となるのは必然であった。最新のおしゃれな装いに身を包んだ者たちが集まり、最新の情報に話の花を咲かせる。贅沢とおしゃれが凝縮した世界となる。流行の最先端の地であり、文化的な高みを保持している吉原は江戸っ子が絶えず気に懸けている場である。そこで通と目されることは快感であったろう。蔦重(蔦屋重三郎の通称)の出版物が通という美意識をくすぐるように仕立てられるのも当然である。
ライバルが現れた吉原
蔦重が情報誌を発行
吉原は蔦重という人材を得て、戦略的に江戸市中ヘの広告を出版物で行い始めた。長年途絶えていた俄(編集部注/吉原俄、吉原で行われた即興芝居)を復活させたのも一連の動きであろう。行事に際して番付など広告機能を持ったもの、吉原出来の吉原情報誌吉原細見(よしわらさいけん)、また吉原全体を高雅に演出する出版物を西村屋与八などの地本問屋を介して江戸市中の人びとに注目させるべく彼は働いたのである。