流行りすぎて沈滞した
狂歌に活を入れた蔦重
この2年ほどの間に、狂歌をやってみようという者が急激に増加したこと、総体として狂歌そのものの水準が著しく低下したであろうことがうかがえる。それとともに、最初期からこの世界に遊び、この流行を牽引してきた者たちの間に、流行と距離を置こうという気配が立ち込め始めたこともうかがえる。熱心に狂歌に関わり始めて、天明4年(1784)には狂歌の盛行をモチーフとした『万載集著微来歴(まんざいしゅうちょびらいれき)』のような黄表紙を出した春町にしても、大会などを企画することは無くなった。
そのような空気の中で、いや、そのような空気の中だからと言ったほうがよいかもしれないが、蔦重のこの世界における振る舞いはより目立つものとなっていった。天明5年8月7日、蔦屋重三郎宅に四方赤良・朱楽菅江・唐衣橘洲が集まり、曽我の役名を題にして集めた狂歌をもとに狂歌師の位付を定め、役者評判記に擬した狂歌集を編纂する。これは翌天明6年(1786)に『評狂判歌 俳優風(わざおきぶり)』として出版される。狂歌の世界の盛り上がりを出版物で演出していく蔦重企画である。

鈴木俊幸 著
『狂歌百鬼夜狂(きょうかひゃっきやこう)』が天明5年冬の南畝による序文を付して出版される。これは、百物語になぞらえて化け物題の狂歌を順繰りに百首詠み合うという10月に行われた催しに基づく狂歌集である。平秩東作「百ものがたりの記」所掲「百物語戯歌の式」末に「天明五年乙巳十月十四日 催主蔦唐丸」とあって、蔦重主催の催しである。参会者は、平秩東作・紀定丸(きのさだまる)・唐来三和・四方赤良・宿屋飯盛・山東京伝・算木有政(さんぎのありまさ)・今田部屋住(いまだべやずみ)・頭光・馬場金埒(ばばのきんらち)・大屋裏住・鹿都部真顔・土師掻安(はじのかきやす)・問屋酒船(とんやのさかぶね)・高利刈主(こうりのかりぬし)。「百ものがたりの記」にこのふざけた催しの始終が尽くされ、それに続いて化け物題の狂歌が並ぶ構成である。
出版物となることを大前提に、蔦重がお膳立てするこれらの企画は、狂歌界の健在ぶり、盛行を演出し、実際の沈滞ぶりを打ち消そうとするものであった。