「ここには魂がない」
夫がそうつぶやいた理由
成田空港に着くなり、「ああ、帰ってきた。うれしい。僕は日本にいるだけで幸せ」
日本への愛をつぶやいた少年G(編集部注:著者の夫。アメリカ人でGは名前の頭文字。60代になったばかりのある日、彼が「今日から僕は、毎日を小学校の夏休み気分で生きる」と宣言したので、著者は夫を少年と呼んでいる)が、岡山駅の周辺を散歩しているときに、こんなことを言うではないか。
「僕は岡山が大好きだけど、いつ来ても、ここには魂がないと感じるなぁ」
魂がない?
びっくりした。
「ええっ、どういうことなの、それは」
「下町情緒に欠けるってことかな。城下町情緒がないっていうか」
そう言われてみると、確かに情緒はないのかもしれない。
駅前からまっすぐに、後楽園と烏城に向かって伸びている太~い幹線道路、桃太郎通り。路面電車は走っているものの、風景には情緒のかけらもない。道路の両脇には、美的センスに欠ける、灰色と茶色のビルがずらりと立ち並び、駅周辺の裏通りには、居酒屋やバーやスナックやファストフード店などが犇めき合っている。大雑把な書き方になっています。ごめん、岡山。
「この桃太郎通りが太過ぎるんだよ。のっぺりしている」と、少年G。
「そうよね、信号待ちをしているあいだにカップラーメンができあがって、渡り切るためには短距離走のダッシュをしなくちゃならないんだものね」
情緒がないことを、私たちはまっすぐな大通りのせいにした。ごめん、桃太郎通り。
その朝、少年Gと別れて岡山大学へ向かう、別の大通りの歩道を歩いているときに、私ははたと気づいた。
歩きながら、膝を叩きたい気分だった。
アメリカじゃないか。
岡山から魂を抜き取ったのは、情緒のない町にしてしまったのは、アメリカではなかったのか。
「ヒエーッみんな黒コゲだ…」
300体もの焼死体の地獄図
ここで、父の昭和絵日記の第2巻「岡工時代」を開いてみる。
岡工というのは、岡山工業学校の略称で、現在の岡山県立岡山工業高等学校のこと。
13ページに、こんな記述がある。
昭和20年6月29日、午前2時30分から岡山空襲。30日朝、西大寺(今の東岡山)から線路の上を歩いて来てみると、南方の家並は残っていたが、何と、校舎は焼け落ちて、跡形もない!北隅の機材倉庫と校門柱だけが残っていたのをみて、ガックリした。
ページの左下の隅には、ぎざぎざの付いた円形で囲まれている「沖縄へ米軍上陸」という文言。
