「結婚はしているの?まさかね」と冗談を言ったり、「いつも夜勤続きで大丈夫なの?」と体のことを心配してくれたり。化粧をしているうちに、そうしたたくさんの思い出が次々に湧き上がり、胸の内に込み上げてくるものがあった。

 あんな話もしたな。こんな話もしたな。思いは尽きなかった。あんなに元気そうに見えたのに、こんなに突然逝ってしまうなんて。これからたくさん勉強して、おばあちゃんにいろんなことをしてあげたかったのに。

看護師は泣いてはいけない
でも無理だった

 千里は、看護学生時代から、看護師は患者が亡くなっても絶対に泣いてはいけないときつく指導を受けてきた。泣いたら仕事にならない。喜怒哀楽は患者の前では出してはいけないと教育されてきていた。でも無理だった。

 泣いちゃいけないと思えば思うほど、鼻の奥がツンとする。ひく、ひく、ひく。千里は肩を震わせた。

 すると後ろから娘の声が聞こえてきた。

「やっぱり若い人って、こういうときでも、おもしろいのね」

 あ、誤解されているかなと千里は思った。でも、黙って処置に集中した。すべて終わって千里は娘たちの方へ振り返った。

 涙と鼻水で顔がグシャグシャだった。

「泣いてたの?ごめんなさい!ああ、気づかなかった。本当にありがとうね」

 千里は頭を下げて病室を出ると、洗面所でひとしきり泣いて顔を洗った。

 病棟の仕事は千里にとって、おもしろいとも、つまらないとも、どちらとも言えなかった。最大の理由は看護学生時代に看護の基本ができていたために、実際に働いてからものすごくスキルアップする部分がなかったからだ。はっきり言えば、生活のために働いているという感じだった。

 2年目になり、後輩たちが病棟に入ってきた。千里は後輩に自分の教わったことを教え、自分は自分の仕事をこなした。仕事は順調すぎるくらい順調で、なかばルーチンのように回っていた。

 少し金銭的な余裕ができた千里は、勤務のあとに先輩の看護師や研修医たちと繁華街に繰り出すこともあった。軽くお酒を飲んで、たくさんお喋りしたあとは、カラオケに突入することが定番だった。千里のオハコは、松田聖子と中森明菜のヒット曲だった。バブルが弾けたあとだったが、街はそれでもまだまだ賑やかだった。