北京と秋田は同じ緯度!? 歴史を動かした「寒さの壁」とは?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました。しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です。地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります。
本連載は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです。地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます。著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏。黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い。近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある。

北京と秋田は同じ緯度!? 歴史を動かした「寒さの壁」とは?Photo: Adobe Stock

地図を深読みして、歴史を学ぼう!

 本日は、中国史を見る上でのちょっとしたポイントをご紹介します。さて、いきなりですが、ここで問題です。

問.北京と南京と同緯度の日本の都道府県はそれぞれどこか?(ヒント:北京は北緯40度、南京はほぼ北緯30度ですが……)

 正解は、北京は秋田県ないし岩手県(秋田市が北緯40度)、南京は鹿児島県(鹿児島市が北緯31度)です。

 さて、今回の問題から、北京と南京はかなり気候の差があることがうかがえると思います。

 そもそも中国は、自然地理の上では淮河と秦嶺山脈を結んだ線で南北に分けることができ、このうち北を華北、南を華南と呼びます。華北を代表する大河が黄河で、華北は寒冷で気候が比較的厳しく、また黄河が暴れ川であったこともあり、治水や灌漑のため、村や町単位での共同作業が不可欠だったのです。このため、華北は南に比べて国家形成が早く、古代中国(殷・周・秦・漢・隋・唐)では政治の中心としての地位を確立します。

 一方、華南は温暖で土地も肥沃であり、この地を代表する大河が長江で、その流域は稲の原産地とされます。生産性が高い華南では、人口の集中が比較的緩慢で、したがって国家形成が遅く、華北の王朝からは長らく未開の地と見なされました。これに変化が生じたのが、魏晋南北朝時代という長い分断の時代です(220~589)。

 華南の気候は華北の兵や騎馬(ウマは暑い気候が苦手)の行く手を阻み、このため華北の諸勢力が華南の攻略に失敗する例が多く見られるのです(その代表例が、三国志で有名な208年の赤壁の戦いです)。

 華南は長江と暑い気候という、天然の要害によって守られてきましたが、魏晋南北朝時代には華北の王朝に対抗するために下流域での開発が進み、これは江南開発と呼ばれます。この江南開発により、長江下流域は中国の穀倉地帯としての地位を確立していきます。事実、唐(618~907)の都として知られる長安は、人口100万人を数える大都市になりましたが、華北の生産力では限界があり、後期は常に食糧難に悩まされていたといいます。

 こうして、魏晋南北朝時代が終わるまでに、華北は政治の中心、華南は経済の中心という棲み分けが、形成されていったのです。この華北と華南を結んだのが、魏晋南北朝時代を終わらせた隋です(581~618)。厩戸王(聖徳太子)が遣隋使を派遣したことで知られる煬帝(位604~18)は、華北と華南をつなぐ大運河を整備します。

(本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者の書き下ろし原稿です)