イギリス留学中に
思わぬ出会いと金言が

 こんな具合に、いつも誰かが何かしらの音楽に関わっている家庭に育ったことで、私は特別意識することもなく音楽好きになっていたのです。

 大学卒業後は能に傾倒し、西洋音楽は聴いて楽しむだけでした。

 もっとも、母が西欧のオペラ歌手たちの歌う音楽番組を愛好していたことの影響もあって、自分も『冬の旅』(シューベルト)など、歌ってみたいなと思い、まずは楽譜を買い入れて眺めてはみたのですが、いざ歌うとなると、とうていこれは独学では無理だということがわかってきて、声楽は挑戦するまえに、あきらめている自分がいました。

 しかし、思わぬところでチャンスに遭遇するのが人生というものです。

 私は1984年から87年まで、日本の古典籍の書誌学研究のためイギリスに留学しました。その際、偶然の導きによって著名な児童文学者であるルーシー・マリア・ボストン夫人の住むマナーハウス(領主館)の離れ(アネックス)を借りて住むことになりました。

 その館には、折々に世界的な音楽家が訪れ、夫人を楽しませるためのホームコンサートが開かれていました。そうして、コンサートの終演後には食事や歓談を楽しむのが常であり、私もそれらの音楽会やその後の会食に招かれて、世界一流の演奏家たちの音楽を、古き館の邸内で聴き、またそれらの音楽家や批評家、あるいはケンブリッジ大学の学者たちと食事やお茶をともにするという幸運に恵まれたのでした。そういうとき、またリラックスした空気のなかで、再び音楽を奏でる人もあり、音楽談義に花を咲かせるというようなこともありました。

 あるとき、ボストン夫人から「あなたも良い声をしているのだから、日本の歌を歌ってくれませんか」と言われ、能の謡曲を謡ったことがあります。すると夫人は「あなたはせっかくそれだけの声を持っているのだから、能楽よりも、本格的に声楽をやってみたらいいと思いますよ」と言ってくださったのです。

 それを機に、にわかに声楽に興味がわいたものの、どこで声楽を習えばいいのかもわからず、帰国後も声楽ではなくて、能楽に没頭したまま過ごしていました。