会合だけでなく
お葬式にも行かない
大学の教授会などというと、なにか建設的な議論をするのかと思われていますが、実際には、事務方の作った議案書類を学部長や事務局長が読み上げて、「ご異議ありませんか?」と形式的に問い、そして先生たちは、ただパチパチと拍手して議案は通過する、というようなものです。いわば、形だけの民主主義なので、出席しても私はいつも苦虫をかみつぶしたような顔をして、ただ黙って座っているだけでした。
会合だけでなく、よほど親しかった人の以外には、あまりお葬式にも行きません。長年お世話になった恩師や身内、親しい友人などはさすがに別ですが、単なる知人や仕事の関係者、友人のご家族などの葬儀には失礼しています。
根源的には、儀式などは形だけのもの、本来から言えば、亡くなった人を心の中で真摯に悼めばよいのであって、葬儀に顔を出して香典袋を置いてくる行為にはほとんど意味がないと思っています。
もちろん読者にまで「葬儀に行くな」と言うつもりはないですが、基準を決めて時間の使い方を管理しない限り、惰性に流されるまま今後も時間を浪費するだけです。
本音では行きたくないなとか、時間がもったいないなと思っていながら、断り切れずに付き合って人生の大切な時間を無駄遣いしてしまい、やがて年を取って、体力と気力が衰えてきたときに「こんなはずじゃなかった」と後悔しても後の祭りです。自分の人生を大切に使うということのためには、つまらぬパーティや会合や法事などの義理は欠く、それが私の確信的生き方なのです。
趣味というのは人生に
「付加価値」を付ける営み
そもそも、趣味というのは「何かを作り出すクリエイティブな営為」であるべきであり、人生に付加価値を付けていくための営みなのだと、私は措定しています。
例えば句会に参加するなら、そのために古典的な言葉を勉強するとか、表現の技巧を研究するとか、日本の季節感と季語を知るとか、いろいろやるべきことがあります。自己実現を目指すなら、まずそういう創造的なことに時間を注ぐ必要があります。