アイデンティティの境界線
複製が問う「私」とは何か
次はもっとむずかしい問いだ。あなた2号はあなたなのか?ここでは物理的な現実の人間である「あなた」は変わらずに存在しているという前提だ。あなた2号はあなたが知らないうちに複製としてつくられる可能性もあるが、その経緯は関係なく、オリジナルのあなたは生きている。
実験が成功すると、あなた2号はあなたのように行動するが、「あなた」自身は何も変わることなく存在している。あなた2号は単独で行動できるので、それは「あなた」から離れて異なる方向に進み、みずからの記憶をつくり、異なる経験に反応する。だから、あなたのアイデンティティが、あなたの脳内における特定の情報の配列にあるかぎり、あなた2号がたとえ意識をもったとしても、それはあなたではないのだ。
対象の一部を少しずつ入れ替えていくときに、アイデンティティはどうなるかという問いが、「テセウスの船」という思考実験として最初に検討されたのは約2500年前だ。
古代ギリシアの哲学者たちは、木造船においてその厚板を1枚ずつ新しい板に替えていくことを想像した。1枚目の厚板がとりかえられても、船は元の船のままだという結論はきわめて自然だ。もしかしたら少し見た目は変わるかもしれないが、それを元の船に起きた変化としてとらえ、新しい船をつくったとは考えない。だが、厚板の半分以上がとりかえられたらどうだろうか?
あるいは、すべての板がとりかえられたときは、船がつくられたときのパーツは何も残っていないが、どうだろうか?
問題はやっかいになるが、まだ多くの人は、徐々に起こる変化では船の根本的なアイデンティティは残る、と答えるだろう。では、交換後の古い板を倉庫にとっておくことを想像してもらいたい。元の船の100%すべてが新しいパーツになったあとで、保管している古い板で船を組みたてなおすのだ。どちらの船が元の船になるのだろうか?徐々に変化して最初のパーツは何も残っていないけれども、船として継続して存在しているほうだろうか、それとも古いパーツで組みたてなおした船だろうか?