太陽が昇り、沈む意味

 太陽は水と同様に日常にありふれた存在とも言えます。

 太陽の働きのおかげで、朝に目が覚める時には外は明るくなっていますし、夜を迎えると外は暗くなり、寝る時間になります。つまり、外界が明るく照らされることでわたしたちの身体は目覚め、外界が暗い闇に包まれると、わたしたちの身体も活動を止めて眠りにつくようになっているのです。

 しかし、わたしたちは朝と夜、光と闇、こうした太陽がもたらすメカニズムの中で日々を過ごしているにもかかわらず、その根底にある太陽が昇り、太陽が沈むといった宇宙的なスケールで行われる雄大な営み自体を見る機会は驚くほどありません。

 しかも、都市の人工化・脳化された社会は行き過ぎている傾向にあり、昼も夜も人工的な光が灯されているため、身体は昼なのか夜なのか分からず混乱するという事態が起きています。身体は脳の都合に合わせてそれなりの無理を強いられながらも、なんとかうまくやっているというのが実情です。

昼も夜も「人工的な光」で身体が無理強いされる中ふと考える、当たり前と感じていた「太陽が昇り、沈む」ことの深い意味稲葉俊郎『山のメディスン 弱さをゆるし、生きる力をつむぐ』(ライフサイエンス出版)

 一方、山では山小屋以外に人工的な灯りがないため、日が落ちると当然のように周囲は闇に包まれます。そのため、登山では行動終了時間を15時から16時くらいに設定していますが、これは自然界に生きるためのルールでもあります。

 こうした自然界の人工的な灯りがない空間の中で、黄昏時にふと空を見上げると、空が真っ赤に照らされていて驚くことがあります。夕陽は、空の色(水と光が関係する)との関係性の中で複雑な赤色を空間に放ちながら、ほんの数分だけ圧倒的な自然界の美を開示するのです。

 人工物が存在しない自然界で見る夕陽は圧倒的なものです。世界中の宗教の中に太陽神が必ず存在するのも、こうした太陽の神秘的な体験そのものに由来しているのだろうと思います。

 また、夕方の太陽だけでなく、朝の太陽も同様に感動的なものです。

 まだ周囲が闇に包まれている早朝に起きて、お湯を沸かして朝食の準備をしていた時のことです。ふと外に出ると、かすかに光が訪れる予感を感じました。そのまま東の方角を見ていると、暗闇から濃紺やピンクなどの複雑な色彩を発しながら数秒の単位で空の色合いが変化し、太陽が光の塊として地平線から登場したのです。刻一刻と空の色が変化し、暗闇だけだった世界に色が与えられていきました。

 登山中の自然の風景にももちろん感動しますが、疲れ果てている時にはそうした余裕がないこともあります。しかし、太陽の壮大な営みを感じることができる日の出や日没の風景は登山の初めと終わりであることが多く、身体も頭も空っぽとなっている時間です。

 この時の空っぽの全身に入り込んでくる太陽の体験はとくに印象に残っています。わたしはこの体験を経て当たり前と感じていた太陽が昇り、沈む、ことの深い意味を嚙みしめるために登山をしているのではないか、と感じるようになりました。

 わたしたちは何気なく生きているように感じられますが、そうした状態を維持するためには、自然が織りなすいのちのメカニズムをはじめとするあらゆる前提条件が必要となります。しかもその前提はありふれている現象にこそ働いているのですが、時に見過ごしがちになります。

 わたしの場合は自分自身の限界に挑もうとする登山のプロセスの中で、生きる前提条件としての水や太陽の存在と自分自身のいのちとのつながりを強く感じるようになりました。

 わたしにとって山は自分が今生きているという神秘や不思議を感じさせる存在であり、さらに生きていることが当たり前ではないことを再認識し、この与えられた尊い1日をまっさらな気持ちで生き直そう、と自然と決意を促してくれる場なのです。

(第2回へ続く)