「そろそろやりませんか?」
防犯訓練好きの刑事も
「いやー、良かったですよ。特に、あなたの札束をばら撒くあたり。あれは迫真の演技というか。窓口のあなたも、時間をたっぷりかけてお金を入れてましたね、素晴らしい!」
一同から笑いが起こる。
「では、犯人を覚えてますか?はい、そこのスーツの女性。どんな特徴だったでしょうか?」
「えっと、あの…男性?」
「正解ですが、もっと詳しく。身長は?」
「高かったような…」
「何色の服でしたか?」
「黒いパーカー?ズボンは…覚えてません」
「いいですか?私たちは15人もいるのに、誰も覚えてないんですよ。人間の記憶なんてそんなもんです。全部思い出そうとするから分からなくなってしまうんです。だから、例えば課長さんは声、課長代理さんは身長、あなたは何色の服、そこのスーツの女性は持ち物とか、担当を決めておきましょう」
1年に1度のことなので、訓練はうまくいった試しがない。また、毎月のように転勤でメンバーが変わる職場のため、なかなか自分の役割を覚えられず、余計に訓練がうまくいかなくなる。
「逃げた犯人ですが、危ないですから、頑張って捕まえようとか思わないで下さいね。捕まえるのは警察の仕事です。他の車両に轢かれたら大変ですし、犯人は刃物を持ってるかも知れません。それと大事なことですが、犯人が触ったところや、歩いた場所は、そのままにしておいてください。髪の毛とか靴についた土など、遺留物があるかも知れませんので」
「か、科捜研よ!沢口靖子のアレだわ」
すぐ調子に乗るロビー担当の小野さんが、小声でちゃかす。山川課長代理が怖い顔で唇に人さし指を立てて戒めた。
10年も預金担当課長を続け、多くの支店でこの訓練を経験してきた。各警察署の生活安全課も十人十色だ。防犯訓練の申し込みを面倒がる感じの良くない署もあれば、「そろそろどうでしょう?やりませんか?」と声かけしてくるサービス精神旺盛な署まである。
以前のこと。電話で訓練の申し込みをすると、刑事さんが打ち合わせをしたいと言ってきた。しっかり訓練したいのだそうだ。訓練の段取りをドラマのカット割りのように準備していて、犯人役が話すセリフまで作ってあり、そのマニアックさに驚いた。今までになかったことだ。
「何というか…ここまでなさらずに、自然体でお願いできませんか?」
しかし、銀行強盗こそが非日常であり、いざという時に動けるようにするためには、このぐらいの準備が必要なのだそうだ。
「いいですか、目黒さん。この裏口からバーンと入ってきてですねー。いきなり、ピストルでバンとやるんですよ!いやもう、皆ビックリしますよ、きっと!」
何だか楽しそうだ。この刑事さん、よほど防犯訓練が好きなんだろう。