
かつて大手証券4社の一角を占めていた「山一證券」は、バブル崩壊後の収益悪化や不祥事が表面化し、市場の信用を失った結果、1997年11月24日に「自主廃業」を宣言。日本経済に大きな衝撃と影響を与えることとなった。しかし、山一が自主廃業を選択したことについて、金融のプロである著者は「最悪のスキーム」と指摘する。山一がとるべきだった最善の選択とは?本稿は、和田哲郎『バブルの後始末――銀行破綻と預金保護』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
なぜ山一證券破綻を回避し
金融危機も回避できなかったのか
大手4社の一角を占め、創業100年を迎える老舗証券の破綻。筆者は山一破綻に釈然としないものを感じていた。まず、金融危機との関連である。1997年11月17日の拓銀、11月24日の山一證券の相次ぐ破綻は、日本の金融問題を危機に変えた。
金融機関の市場からの資金調達が困難になり、日本の金融機関に対する上乗せ金利、いわゆるジャパンプレミアムも急上昇、全国的な取付けが発生した。山一證券破綻を回避することで、金融危機も回避できなかったのか。
日本銀行との関係をみると、国債買い切りオペ(公開市場操作)等、オペ先となるなど金融調節に協力していた。考査という資産内容に関する検査の実施先でもあった。山一證券は海外で銀行業務を営む現地法人も有していた。
これだけの証券会社が市場から消えた影響は大きい。
次に、山一證券はなぜ、飛ばし(編集部注/株価が下落して含み損が発生している有価証券を、決算期末に損失を隠すために他の企業に転売する取引)を続けたのか。
飛ばしは他社も行っていた。1991年、大蔵省は大手4社の特別検査を実施した。1992年に入ってから訴訟・和解の動きが出て、大蔵省は証券会社に飛ばしの情報開示を求め、4月に山種証券に対し業務停止命令を発出した。
また5月、大蔵省は国会で和解、調停、訴訟は15件、1755億円であったとの答弁を行った。その際、大和、コスモ、丸万については、社名を公表の上、処分しない旨答弁している。ただこの間、山一證券の飛ばしが表沙汰になることはなかった。
そして、1992年10月、損失補填、一任勘定の禁止、および証券事故における損失補填の適用除外を内容とする改正証券取引法が成立、1993年1月に施行された。
山一證券としては合法的に飛ばしを処理する好機到来であった。実際、同社の三木淳夫副社長は大蔵省松野允彦証券局長に相談に行っている。しかし、山一證券はアクションをとらなかった。それはなぜか。
飛ばしによって処理するよう
大蔵省に示唆された
ひとつの答えは、大蔵省の指導があったのではないか、という点である。
大蔵省松野証券局長は、(1)1991年の11月か12月頃、山一證券三木副社長が、飛ばしの処理についての一般の考え方を聞きに来た、(2)取引先企業との間で飛ばしに絡んだトラブルがあるという話は聞いた、(3)その際話の流れの中で、現先取引の仲介を続ける場合、その仲介先を国内企業に限ることはないという話はしたかもしれないが、指導はしていない、との国会答弁を行っている。(1998年2月4日、衆議院大蔵委員会)