一方、山一證券社内調査報告書(1998年4月)には、「1992年1月22日頃、三木副社長は松野証券局長から大和證券を引き合いに出しながら海外への飛ばしの可能性を示唆された」としている。

 また、同副社長の大蔵省往訪結果の報告を受けた山一證券の行平次雄社長、延命隆副社長、小西正純法人営業本部長ら役員たちは、「大蔵省から東急百貨店の件(編集部注/山一と保証契約を結んで積極的に飛ばしを引き受けていた東急百貨店から、巨額の損失を引き取るよう催告状が出されていた)を訴訟等によらず飛ばしによって処理するよう示唆されたと理解し、同百貨店とは法的に争わず損失を引き取ることを決定した」と記されている。

 以上のように、大蔵省は飛ばしを巡り山一證券から相談を受けたことは認め、山一證券も大蔵省に相談に行っていることを認めている。しかし、その時期については、両者で認識が異なる。

 また「飛ばしを海外にもっていったほうがよいという指導は行っていない、話の流れの中で、国内に限る必要はないと言ったかもしれない」と大蔵省は言い、山一證券サイドでは「他社の例を引き合いに示唆を受けた」とするなど話の中身についての認識も異なっている。

山一破綻で最も釈然としないのは
自主廃業が選択されたこと

 大蔵省の対応や発言にも不可解な点がある。大蔵省は山一證券から飛ばしの相談を受けたことは認めている。その時、飛ばしをやめよと指導・示唆しなかったのはなぜか。

「当時の状況からすると、企業が株を現先取引の形で一時移しかえることは法律で規制ができない以上、あとは経営者の判断の問題」と、1998年2月に松野証券局長は国会答弁している。

 しかし、1992年4月に同省は飛ばしを行っていた山種証券に業務停止命令を発出している。

 なお、同じ国会答弁のなかで松野証券局長は、「証券会社が責任を負わなければならないもの(飛ばし)はないとの報告を受けていた。損失補填を禁止するための法律改正が成立し、施行された時点なので、よもやそういうことをやるとは考えていなかった」と話している。

 一般的な飛ばし処理に関する相談はあったが、山一證券の問題として報告はなかったということなのだろうか。