
1997年11月、銀行や大手証券会社の相次ぐ破綻により、日本は未曽有の金融危機に突入。翌98年には、経営破綻した日本長期信用銀行(長銀)が、金融再生法に基づく特別公的管理(一時国有化)を申請し、46年の歴史に幕を閉じた。その後、長らく公的資金の返済が滞っていた旧長銀を前身とするSBI新生銀行だったが、今年に入り、約3300億円が残る公的資金返済について2025年度中に完済する方針を明らかにした。金融業界を知り尽くす著者が、バブル崩壊に始まる激動の裏側を解説する。本稿は、和田哲郎『バブルの後始末――銀行破綻と預金保護』(筑摩書房)の一部を抜粋・編集したものです。
連続する金融機関破綻
国会で金融安定化法が成立
1997年11月の北海道拓殖銀行や山一證券などの連続した金融機関破綻、それに連鎖した金融危機。一般企業まで資金がとれなくなる「貸し渋り」に人々の注目が集まった。
大型破綻の余韻も冷めやらぬ98年2月、国会では金融安定化法が成立し、大手銀行に公的出資が行われた。長銀にも1766億円の公的出資が行われたが、市場の期待ほどは大きくなく、焼石に水だった。7月に発足した小渕恵三内閣は、日本長期信用銀行(長銀)問題を重要な経済課題と位置づけ、総理大臣自ら住友信託銀行との合併説得に乗り出したが、同年10月には破談となった。
長銀にとってとりわけ大きなダメージとなったのは、その経営問題への対処が政争の具と化したことだった。連日国会で「長銀問題」がとりあげられ、資金は大量流出した。そうして10月23日破綻した長銀は、一時国有化された。同じ日に施行された金融再生法に基づく初の特別公的管理(一時国有化)の適用を受けたことから、長銀は同法の施行を待って破綻したともいえる。
一時国有化という金融システム安定化策は、長銀破綻前には法整備されておらず、綱渡りの状態だった。
2000年3月の競争入札の結果、長銀は米国再生ファンド、リップルウッドなどからなるLTCBパートナーズに10億円で売却された。そして、同年6月、新生銀行に商号変更した。長銀の売却契約の中に、瑕疵担保条項(受皿機関は引き継いだ債権が3年以内に2割以上下落した場合、国に買取り請求を行うことができるという条項)が入り、物議を醸した。しかし、現実にはその条項なしでは引き受け手がみつからない状況だった。
小渕内閣が野党案を
丸呑みした「金融国会」
1998年7月30日に、第143回臨時国会がはじまった。この日、橋本龍太郎内閣から小渕恵三内閣に政権が移った。国会の終盤に実質的に長銀の一時国有化のための法案(金融再生法)が成立した。国会は「金融国会」と呼ばれた。長銀処理法案を巡り、与野党が激突した。
長銀処理策が国会の場で堂々、公開討論されたのであるが、それがために長銀から資金の大量流出を促した面は否定できない。