【八幡商業高校】華麗なる卒業生人脈!伊藤忠商事の越後正一、ワコール創業の塚本幸一、元首相の宇野宗佑、楽天・則本昂大…東北楽天ゴールデンイーグルスの則本昂大投手 Photo:SANKEI

伊藤忠商事の2代目忠兵衛から
「中興の祖」越後正一までの4人が卒業

 琵琶湖東岸で滋賀県中部の近江八幡市にある。「近江商人」発祥の地であり、滋賀県立八幡商業高校は戦前から「近江商人の士官学校」といわれた。略称は「八商」だ。

 この学校の真骨頂は、企業の創業者や後を継いで企業を大きく成長させた経営者が、いっぱい巣立っていることにあるだろう。極め付きは、総合商社の伊藤忠商事と丸紅を育て上げた卒業生の面々だ。

 伊藤忠と丸紅は同根だ。創業者の初代伊藤忠兵衛は琵琶湖の湖東出身で、江戸時代末期の1858年に、両社のルーツである麻布類の「旅商い」を始めた。

 初代忠兵衛が商売を始めた時には滋賀県商業学校(のちの八幡商業高校)はできていなかったが、2代目忠兵衛を襲名した初代の次男(精一)は、父が亡くなった翌年(1904年)に旧制の八商を卒業した。家業を継ぎ、伊藤忠商事の2代目社長となった。

 伊藤家の養子に入った伊藤竹之助は、2代目忠兵衛より4期前の1900年に八商を卒業した。2代目忠兵衛と竹之助は、名コンビで戦前までの伊藤忠を盛り立てた。39年には2代目忠兵衛が会長になり、竹之助が伊藤忠商事の第3代社長となった。

 1921年に伊藤忠商店は伊藤長兵衛商店を合併し、丸紅商店を設立した。ここで初めて「丸紅」の名前が出てくる。44年の戦時統制命令で大建産業が発足、丸紅の名はいったんなくなるが、戦後に過度経済力集中排除法で伊藤忠と丸紅は分離し、独立した。

 再発足した伊藤忠商事の初代社長に就いた小菅宇一郎(4代目社長)と、その後の「伊藤忠中興の祖」といわれる越後正一(5代目社長)も八商を卒業した。要するに、伊藤忠商事の2代目経営トップ以下4人は、すべて八商で学んだわけだ。このうち越後だけは神戸高等商業学校(現神戸大)に進学した。

 丸紅の戦後の初代社長(49年就任)は市川忍だったが、市川は旧制茨城龍ヶ崎中学(現竜ヶ崎第一高校)を経て神戸高等商業学校卒で、近江の生まれ・育ちではなかった。

 伊藤忠の会長・CEOである岡藤正広(大阪府立高津高校―東京大卒)は、2025年1月に日本経済新聞に連載した『私の履歴書』で、「丸紅と当社は…もともとは『紅忠』という同じ会社だった」とし、10年代半ばに、丸紅社長だった国分文也(麻布高校―慶応大卒、現在は会長)に「合併で一緒になって打倒財閥ですよ」と話を持ちかけた「秘話」を披瀝(ひれき)している。紅忠復活構想は結局、「闇に消えた」という。