江戸幕府を震撼させた
「島原の乱」の意外なきっかけ
ミナカタ 島原では、1634年から悪天候が続いていた。今話した、世界的な異常気象の影響だろう。凶作が続き、米が収穫できないので農民たちはとても困っていた。もちろん農民だけではなく、年貢を取り立てる側も困っていた。
当時の島原藩の大名・松倉勝家(まつくらかついえ)は、思うように年貢が集まらないことに業を煮やし、米や麦だけでなく、税を払う余裕がない人にも一定の税を納めさせる人頭税(じんとうぜい)など、いろいろな税をつくっては厳しく取り立てたという。

メグル 凶作だから、年貢を納めたくても納められないのにね……。
ミナカタ そうだよね。でも勝家は、年貢を納められない人たちを捕まえて、見せしめのために拷問した。例えば、藁蓑(わらみの)を着せて火をつけ、もがき苦しむ姿を「蓑踊り」と呼んでいたという。
ワタル その人、何でそんなに残虐なの? 何か腹が立ってきた。
ミナカタ もともと島原は、キリシタン大名だった有馬晴信(ありまはるのぶ)の領地で、キリスト教信仰が盛んだった。有馬晴信の転封後、代わって、勝家の父、板倉重政(いたくらしげまさ)がやって来たのだけれど、重政は徹底的にキリシタンを弾圧し、改宗を迫った。応じなければ拷問や、処刑することもあった。
さらに、「スペイン統治下のフィリピンのルソンを攻めに行きたいので、許可してほしい」と、幕府に申し出た。当時、ルソンはアジアにおけるキリスト教布教の本拠地だったんだ。
メグル キリシタン弾圧の取り組みを、幕府へアピールしたかったのかな。
ミナカタ 幕府から許可を得た重政は、軍備を整え始めたのだけれど、そのための莫大な戦費や、島原城新築の費用が必要だった。そのため、領民たちに厳しい税を課したんだ。
ワタル よく幕府もそんな無謀な計画を許可したね。
ミナカタ 当時の将軍、徳川家光が許可をしたというよりは、上司の機嫌をとろうとした幕臣たちが進めたようだ。でも結局、重政は急死し、この計画は頓挫した。その後を継いだのが勝家で、彼もまた、領民にとって過酷な統治を続けることになる。二代にわたる過酷な取り立てや弾圧に耐えかねた島原の人たちは、ついに一揆を起こした。いわゆる「島原の乱」だ。
さらにこれに呼応し、キリシタンの間でカリスマ的な人気を誇っていた16歳の少年、益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)を総大将として、肥後国の天草(あまくさ)(※)でもキリシタンたちが大規模な一揆が起こした。この少年はのちに「天草四郎」として歴史に名を残すことになる。
※現在の熊本県南西部の天草諸島
メグル 天草四郎、ゲームやアニメによく登場するので名前は聞いたことあるよ。
ミナカタ 島原だけでなく、島原と天草で起きたものであり、また、幕府の都合で「キリスト教徒による反乱」が強調されてきたけれど、実際は、「苛酷な圧政に対しての一揆」という側面も強かったので、最近は「島原の乱」ではなく、「島原・天草一揆」と呼ばれたりするよ。
一揆はどんどん広がり、牢人(ろうにん)や、近隣の村人たち、さらに一部の仏教徒たちも加わって、約4万人近くに膨れ上がっていった。
ワタル キリスト教徒だけでなく、仏教徒も一揆軍にいたんだね。「牢人」って?
ミナカタ 「牢人」というのは、雇い主が没落して勤め先がなくなった武士たちのことだよ。別の字を用いた「浪人」とも書くけれど、そちらのほうは「諸国を流浪する人」という意味合いが強い。
もともと天草はキリシタン大名だった小西行長(こにしゆきなが)の領地だったけれど、関ヶ原の戦いで負けてしまったために、家臣たちの多くは牢人となってしまったんだ。天草四郎を担ぎ上げたのも、行長の旧臣たちだったといわれている。
牢人の中には、関ヶ原の合戦に参加していた戦上手の者たちもいて、一揆というレベルをはるかに超えた規模だった。江戸幕府は鎮圧軍を派遣したものの、その実態を見誤り、一揆軍に大敗してしまうんだ。一説によると、一揆軍はポルトガルにも援軍を要請していたという。
威信を揺るがしかねない事態に焦った幕府は、次々と援軍を送ったのだけれど、これらもことごとく失敗した。そこで、「知恵伊豆(ちえいず)」と呼ばれた切れ者の松平信綱(まつだいらのぶつな)を幕府から派遣。九州の大名たちの援軍も合わせて、最終的に12万〜13万人という大軍で、一揆軍が立てこもる城を囲み、兵糧攻めにした。
ときには、ポルトガルが一揆軍に加勢に来たと思わせて、オランダ軍船から一揆軍を攻撃したりと、心理的な揺さぶりもかけた。最終的に陸と海から総攻撃をかけて、ようやく落城する。
メグル 天草四郎はどうなったの?
ミナカタ 幕府軍に討ち取られて、城の前に晒さらし首にされた。幕府軍による総攻撃前に投降した人たちもいたけれど、それ以外の一揆軍は、ほぼ全員、戦死または処刑された。城の跡から、当時の人骨のほか、鉄砲の鉛を溶かしてつくった簡易的な十字架も多く発見されているよ。
島原藩の藩主・松倉勝家は、これほどの一揆を招いた原因をつくったとして、斬首された。江戸時代に大名が切腹ではなく、斬首を言い渡されたのは、この1件のみといわれている。天草側の唐津藩(からつはん)藩主・寺沢堅高(てらざわかたたか)も、天草領4万石を没収された。その後、自害し、寺沢家は断絶してしまう。
メグル 結局、誰もが悲しい結末になってしまうんだね。
ミナカタ この大事件を経て、幕府はキリスト教をこれまで以上に警戒するようになったんだ。ポルトガル人を国内から追放し、ポルトガル船の来航を禁止。キリスト教を禁止する法令を強化し、「鎖国」政策を徹底するようになる。わずかに生き残った信者たちは、キリシタンであることがバレないよう、深く深く潜伏していった。
松倉や寺沢の統治がよくなかったとはいえ、これほどの大規模な一揆が起きた大きなきっかけの一つが、凶作だった。さらにその要因をさかのぼると、世界的な異常気象であり、世界各地で起きた火山の噴火だ。
島原・天草一揆は1638年には鎮圧されたけれど、その後、全国に不穏な出来事が多発する。
1638年、西日本で牛疫(ぎゅうえき)というウイルスによる伝染病が流行し、牛が大量死してしまう。1640年、蝦夷地(えぞち)、今の北海道の駒ヶ岳(こまがたけ)が噴火し、降り注いだ灰が農地を荒廃させた。また、長雨や気温低下を招いた。
一方、関東では雨がまったく降らなくなってしまった。江戸の町人であり作家でもある斎藤月岑(さいとうげっしん)が書いた『武江年表(ぶこうねんぴょう)』という武蔵国江戸の研究書には、「5月も6月も雨が降らない」という記述がある。
メグル 梅雨の時期なのに、2カ月も雨が降らないなんて。
ミナカタ 農作物は枯れ、食料も底をつき、お腹を空かした大勢の人たちが、江戸や大坂などの都市へ流れ込んできて、路上などで流浪の生活を送ることになる。その多くは、もといた故郷へ送り返されたけれど、一部は「御救小屋(おすくいごや)」と呼ばれる臨時施設に収容され、食事が施されたりした。
飢饉は深刻化し、日本全国で餓死者が続出する。正確な人数はよくわかっていないのだけれど、全国で5万〜10万人が餓死したといわれているんだ。
ワタル せっかく戦国時代が終わったのに……。
ミナカタ 家光は、対策本部を設置し、全国の凶作の実態を調査。家臣たちと何度も対策を議論する。
この大飢饉の背景は、異常気象に加えて、太平の世となったことで仕事を失った武士たちが生活に困っていたことや、参勤交代で各藩は多額の出費が必要となり飢饉対策のための費用が捻出できなかったことも、被害を深刻化させた。
そのため家光は、参勤交代で江戸に滞在していた大名たちを急ぎ帰国させ、直接的な指示をもって対策にあたらせた。
また、祭礼や仏事などの贅ぜい沢たくを禁止したり、年貢米の細かな管理や運搬のための経費を削減したり、酒やタバコの製造を制限したりした。酒は米からつくられるからね。タバコは風紀の乱れや耕作の妨げになるとされていたんだ。米や豆腐などを食べる量も制限し、将軍自らも質素倹約に努めた。
メグル 家光は真面目で質素倹約って、授業で聞いたことがあったけれど、大飢饉という背景があったんだね。お米を食べる量まで制限されるなんて、何だか当時の人々がかわいそう。
ミナカタ 凶作によって米の生産が全国で減っているということは、ほしい人は高いお金を払ってでも手に入れたいと思うから、米の価格が跳ね上がってしまう。人々の食生活に欠かせない米の価格が上昇すると、さらに社会の混乱や不満を招いてしまう。そこで、人々に倹約を促すことで、そもそものニーズ自体を減らしてしまうという目的もあったんだ。
メグル そうなんだね。
ミナカタ この「寛永の大飢饉」は、江戸幕府による全国統治の政策を大きく転換させることになった。
それまでは、幕府の強大な力を前面に出すことで、大名や人々を抑え込んでいた。幕府にとって脅威になりそうな大名がいれば、何か理由をつけて改易や減封を命じた。島原・天草一揆でも、大勢の人を鎮圧軍として動員して、力で無理やり抑え込んでいたよね。戦国時代からの軍事体制がまだ続いていたんだ。
でも今回の大飢饉をきっかけに幕府は、食べ物に困らない安定した世の中を保つためには、「何より農家や人々の暮らしを大切にしなければいけない」と考えるようになった。武力に頼っていた政策から、人をいたわる「撫民(ぶみん)」政策へと、変わっていったんだ。
戦の世は終わったけれど、こうした飢饉が何度も襲ってきたのが江戸時代という時代だ。江戸時代は1603年から1867年まで約260年続くのだけど、その間に今話した「寛永の大飢饉」のほか、「享保(きょうほう)の大飢饉」「天明(てんめい)の大飢饉」「天保(てんぽう)の大飢饉」といった大飢饉が起きた。これらは「江戸四大飢饉」と呼ばれる(※)。
※各飢饉の発生時期は、寛永の大飢饉は1640年〜1643年、享保の大飢饉は1732年〜1733年、天明の大飢饉は1783年〜1787年、天保の大飢饉は1833年〜1837年頃。飢饉の発生時期と収束時期は多くの諸説あり
ワタル 江戸時代って、そんなにたくさんの飢饉が起きているんだね。
ミナカタ このほかにも、東北地方を中心に甚大な被害をもたらした飢饉がいくつも起きていて、その中でも特に深刻だったのが、1695年をピークとした「元禄(げんろく)の飢饉」だ。
寛永の大飢饉から約50年後の1690年頃から、再び地球を異常気象が襲った。ヨーロッパでは厳冬が訪れ、夏も大雨に見舞われた。オランダでは運河が凍りついて水運が麻痺し、島国のアイスランドは流氷に囲まれ船の往来ができなくなった。収穫が少なくフランスなど各国で大飢饉が起き、アイルランドでは疫病が大流行した。中国でも厳冬のために長江が凍結し、あまりの寒さに樹木は枯れ、人間も家畜も凍死したと記録に残っている。
もともと平均気温が低い日本の東北は、冬は大雪、5月〜6月は大雨、夏は冷夏と、異常低温が続いた。農作物は育たず、凶作が深刻化し、木の葉や草の根を食べてしのぐような状況だったという。こうした東北の寒冷傾向は、1702年まで続いた。
そして、ちょうどこの頃、江戸では大事件が起きている。何だと思う?
メグル え、何だろう。
ナラティブ・エディター。広告/IT企業や複数の出版社を経て、現在は、オンラインメディア、書籍、雑誌、漫画などのさまざまな分野とメディアで、物語に関する企画や構成、編集、執筆、ワークショップの設計等を行う。対象ジャンルは、歴史、IT、経済、建築、経営、法律、音楽、映画、アート、デザインなど。