また、同じ拘置所の雑居房で何人かと一緒になったときに、先に入っていたちょっと不良っぽい若者たちもすごくやさしくて、自分みたいな新入りに、洗面はここで、布団はここに置くんだよと、いろいろ教えてくれた。こんなかわいい弟たちが自分にいたら絶対こうはならなかっただろうと、いちいち逮捕後の出会いに感動して、それを切々と書いている。

 それを読んで私は、あぁ、なんてことだろうと思いました。この人に誰か1人でも、君はいいところあるよねとか、君ならこれができるよ、こうしてみたらと言ってくれる大人がいたら、全然違った人生だっただろうなと思って。

聖書のカバーに書かれていた
「You are loved」の一文への気づき

香山 そういうときに私は、宗教ってすごくうまくできた装置だなと思うことがあるんです。とくにキリスト教はそうだなと思う。たとえば子供が歌う賛美歌に、「生まれて今日まで神さまに愛されてきた友達の誕生日です、おめでとう」という歌詞の誕生日の歌があるんです。たとえこの世では誰もあなたを愛してくれていなくても、神さまはあなたを愛しています、というのがキリスト教の教えの根幹なんですよね。

 友達からもらった聖書のカバーがあって、それをぱっと開けたら、「You are loved」と書いてあった。何かドキッとしますよね。あなたは気づいていないかもしれないけれど、神さまはずっとあなたを愛していたんですよ、と言われるわけですから。先ほど龍光さんが言ったように、誰からも肯定されたことがないとか本当に愛されたことがない人に対してはすごく届く言葉なんじゃないかな。それは仏教ではどうなんでしょう。誰もあなたに気づかなくても御仏(みほとけ)は気づいている、といった教えはあるんですか。