漫画家事件の犯人が
冒頭意見陳述で語った内容とは
香山 これは私にとってあまりに印象的だったので、すでにいろいろな本などに書いてきたのですけど、2012年から13年にかけて、「『黒子のバスケ』事件」というのがありましたね。逮捕されたのは当時、30代だった青年なのですが、『黒子のバスケ』という人気漫画の作者の漫画家を恨みに思って、その漫画家や漫画の関連のイベントに脅迫状を送って、火をつける、毒をまくと脅したという事件です。逮捕された青年は初公判の冒頭意見陳述で、自分がたどってきたこれまでの人生を文章に書いて読み上げた。それが凄まじい内容でした。
子供のときは親に虐待され、学校の先生からもばかにされ、やっと友達ができても、その子は白血病で小学生のうちに亡くなってしまう。それ以降も、出会いがあったかと思うと、その人がいなくなってしまうという不運が続くんです。誰にも親身になってもらえず、喪失感のなかで、彼は自殺を決意する。でも一人ぼっちで寂しく死にたくない。最後の最後に自分と一番違う境遇の人に一矢を報いて死にたいと思った。
そこで、自分と一番違う人は誰だろうと考えたときに、その漫画家のことが思い浮かんだそうです。その人はとても和やかな家庭で育ち、勉強もできて名のある大学に行き、卒業後は、漫画の才能もあって売れっ子の漫画家になった。自分はこんな悲惨な人生を送ってきたのに、この世にはこんな恵まれた人もいるのかと怒りがこみ上げて、この幸せそうな漫画家に対して、自分だって生きていたんだということを猛烈に知らせたくなったというんですね。
その陳述のなかで、私がはっと思ったことがあるんです。逮捕されて、取調べを受けているときのことを思い出して、「こんなに人に親身に話を聞いてもらったことはない」と言っているんですよ。取調べですから、身の上のことに始まって詳細に聞かれるのは当たり前ですよね。向こうは仕事でそうしているだけかもしれないのに、この青年は感激している。刑事のなかには、「君は地頭はいいのに惜しかったね」と言ってくれた人もいたそうで、それにも彼は感動している。そうやってほめられたことなどないからです。