自分はただ存在しているだけで
ほかの生き物の役に立っている
小野 仏教をまだよくわかっていない人間の理解という前提でお聞きいただければと思いますが、仏教においては、生きとし生けるものはすべてつながっていて、平等であるという思想があると思うのです。ですので、愛される、愛されていないというよりも、ほかの存在から必要とされていて、それらとつながっているという考え方に近い。僕の存在は自分が吸う空気や、食べる草木や動物といった自然からのもので成り立っているし、自分の吐き出す空気やふん尿は、ほかの生き物を成り立たせるものへとつながっていく。
自分を含めた生ある一つひとつが、ほかの生き物に役に立っている存在であり極めて尊い存在であるというものです。ですので、そもそも生きているだけで有ることが難い、つまり有り難い状態でもあるし、さらには、誰もが他人へのやさしさを育て、誰かをより支えられる存在にもなれる。そんなふうに自分なりではありますが、解釈しております。

小野龍光、香山リカ 著
僕が相談者の方に「大丈夫ですよ」と言う言葉の裏には、「呼吸しているだけであなたは自然界のなかで極めて重要な役割をもうすでに果たしているんです、すばらしいことじゃないですか。よしんば死んだとしても、次に咲く花の養分になれるんです、すごい価値を持っているんです、エネルギーを持っているんです、なので大丈夫ですよ」という想いを込めさせていただいております。生きているだけで、自然界の極めて尊い役割になっていると。
一神教的な神からのメッセージには、“あなたは神から愛されている。だから大丈夫”という想いが込められているとするならば、仏教のほうは、“生きているだけで尊いのだから、大丈夫。いてもいいんだよ”“生きていていいんだよ”という想いがある。そのように私は理解しています。