「趣味はジュリーの追っかけ」キラキラ女子の瀬戸内寂聴が五木寛之のたっての依頼に返したシリアスな言葉Photo:SANKEI

恋多き作家であった瀬戸内晴美は、51歳で出家して瀬戸内寂聴となった。五木寛之とともに、第1回から泉鏡花文学賞の選考委員になったのは、ちょうど出家の頃。その第1回の受賞が、半村良の『産霊山秘録』。半村は「伝奇ロマン」や「伝奇SF小説」というジャンルを作り上げた奇才である。泉鏡花賞をめぐる2人の作家の言動を五木寛之氏が紹介する。※本稿は、五木寛之『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬ言葉』(新潮選書)の一部を抜粋・編集したものです。

若き日の瀬戸内寂聴は
同じ美容雑誌に書く戦友

「鏡花賞ほしいから選考委員やめようかな」

 最初に知り合ったときは、寂聴師ではなく、瀬戸内晴美さんだった。雑誌の対談でご一緒したのである。

 じつはそれ以前から瀬戸内さんとは、不思議なご縁があったのだ。

 それは私が東京の仕事を整理して、金沢へ引っ越した頃のことである。マスコミのあわただしい生活から身を引いたものの、いくばくかの収入がなければ暮していけない。そこでNHKの番組の構成を手伝ったり、頼まれれば歌の歌詞を書いたりして稼いでいたのだ。

 そんな仕事の1つに、雑文書きというのがあった。いろんな雑誌の埋め草記事を引き受けて、文章を書く。いまでいうならフリーのライターといったところだろう。

 そんな仕事のなかに「みわく」という雑誌への執筆があった。「みわく」というのは、美容雑誌の一種である。美容の業界のニュースや、美容師試験をめざす男女への情報誌という感じのマイナーな雑誌だった。

 私はその雑誌に、「おしゃれのパンセ」というキザなタイトルのエッセイを連載していたのだ。美容業界の雑誌にもかかわらず、スペイン内戦(編集部注/1936年から1939年まで第二共和政期のスペインで発生した、左派の共和国人民戦線政府と、フランシスコ・フランコ率いるファシズム陣営との内戦)の話やら、なにやら青臭い文章を書いていた。編集者がよくのせてくれたものだと今でも不思議に思っている。

 その「みわく」という業界誌に、少女小説めいたロマンチックな物語を書いていた女性の作家がいた。

 文芸とは全く関係のない雑誌である。たぶん私と同じように生活を支えるために連載しているのだろう、と勝手に想像していた。心の内で、どこか戦友めいた感情を抱いていたように思う。

 その書き手の名前が、瀬戸内晴美さんだった。

 文芸の世界では大先輩だが、なんとなく同期の桜めいた親近感をおぼえていたのはそのためだった。