容疑者ルゴボイとコフトゥン
2人が暗殺に使用した危険物質とは
ルゴボイは1966年、アゼルバイジャン・バクーで生まれたロシア人である。リトビネンコの4歳下だ。モスクワ高等軍事指揮学校を経て1980年代後半、KGB(※7)に入り、第9局で政府要人の警護を担当した。
(※7)…編集部注/ソ連国家保安委員会の略称。諜報機関として暗躍したが、ソ連崩壊後に解体
ソ連崩壊後に民間警備業を起こし、ロシアのテレビ局で警備を請け負った。リトビネンコとはKGBで知り合ったが、関係が深かったわけではない。2人は2004年ごろから定期的に交流し、暗殺の数カ月前から頻繁に接触するようになった。
一方、コフトゥンは1965年にモスクワの軍人の家庭に生まれた。高等軍事指揮学校でルゴボイと再会し、卒業後も同じKGB第9局に勤務した。
ソ連が崩壊した際には、最初の妻と一緒にドイツ・ハンブルクに移り、政治亡命を申請している。その後、ロシアに戻り、ルゴボイにスカウトされ、事業を手伝うようになった。
2人はロンドンからモスクワに戻り、病院で被曝(ひばく)障害の治療を受けた。飛行機の座席からは濃度の高い被曝痕が見つかっている。放射性物質による暗殺は確実性を担保できる反面、被曝の痕跡を残す。犯人が「足跡」をつけながら動き回っているのと同じである
マリーナは当時、容疑者についてどう考えていたのだろう。
「2人がやったと信じていました。ほかの人には動機が見つかりません」
2人はなぜ、自分たちも被曝するような危険物質を使ったのだろう。
「毒物であるとは聞かされていたが、放射性物質だとは知らなかったのかもしれません。その性質を理解していたとは思えない。だから無造作に扱ったのでしょう。警察は容易に痕跡を見つけています。どんな物質かを知っていたら、もっと慎重になったはずです」
その場合、実行犯の追跡はより難しくなっていただろう。2人はだまされて暗殺に加担したのだろうか。
「そうだとしたら愚かです。だから、誰に指示されたのか、真実を打ち明けるべきです。ロンドンでなら真実を語れます。2人は双方(英国とロシア)から圧力をかけられ、身動きが取れなくなっています」