マリーナとロシア大使の
公式会合の一部始終

 大使との会合の前日、マリーナはロンドン警視庁から電話を受けた。

「ルゴボイの身柄を引き渡すようロシアに要求します。発表していませんが、証拠はそろっています」

 会合当日、マリーナは予定通り、人権問題を扱う弁護士ルイーズ・クリスチャンと一緒にケンジントン宮殿近くの大使館を訪れた。

 静かな部屋に入って椅子に腰かけると、職員から「お茶を飲みますか」と聞かれた。

「いいえ、結構です」と答えた。夫が殺された状況を思うと、ここでお茶を口にする気にはなれなかった。しばらく待つと、体の大きな大使、ユーリ・フェドトフが姿を見せた。

「お茶を飲まないのですか」

「いいえ、結構です」

 フェドトフはすぐに切り出した。

「捜査に関心を持っていることと思います」

 マリーナは感じた。大使はまだ、身柄の引き渡し要求について、英国政府から連絡を受けていないようだと。

「ルゴボイ氏はロンドンに来るべきです」

「不幸にも、この事件がロシアの評判に暗い影を落としています。政府は真相の解明に関心を持っています。しかし、それはロシア検察が対処すべきです」

「事件は英国で発生しました。ルゴボイ氏は英国で真実を語ればいいはずです。ロンドンに来させてください」

「それは私の権限ではありません」

 話し合いが20分ほど続いたときだった。職員が部屋に入ってきて、フェドトフに耳打ちした。大使は「失礼」と言って、いったん部屋を出た。戻ってきた彼はやけに慌てていた。

「申し訳ないが、外務省に行かねばならなくなった」

 マリーナは外務省がロシアに引き渡しを要求するのだと思った。話し合いは途中で終わった。

 大使は何を目的にマリーナを呼んだのだろう。

「結局、プーチンに書いた手紙への回答はありませんでした。私が行動を起こしたのを見て、落ち着かせようとしたのだと思います」

 この3年後、フェドトフは大使を離任する。核による暗殺への関与が疑われる国の元大使に与えられた新ポストは、国連薬物犯罪事務所の事務局長だった。冗談としか思えぬ異動だった。