お釈迦様も欲望という名の悪魔に悩まされた

 ここで、私たちが持つさまざまな欲望、つまり煩悩の根本原因を紹介します。それは「無明」というものです。私たちの「根源的な身勝手さ」であったり、「根本的な生存欲」と捉えることができます。

 この無明からさまざまな煩悩、個別の欲望が生じ、それが苦しみへとつながります。お釈迦様は、この一連の流れをつきとめました。

 仏教は代表的な欲を「五欲」と言いますが、「食欲、色欲、睡眠欲」という三大欲求に「財欲」と「名誉欲」が加わります。

 名誉欲とは、高い名声を得るだけでなく、身近な人に褒められたり認められたりしたい、よく見られたいという心。職場で上司に認められなかったり、人に邪険にされたり、容姿を否定的に言われて苦しむのはこの欲があるためです。

 名誉欲が強いと、ずっと若くありたい、不老長寿を実現したいなどと願い、そこに大金をつぎ込むことがあります。すると財欲(物欲)も膨らんで、もっとモノやお金が欲しくなり、あればあったでさらに欲しくなってしまいます。

 だからこそ、人気のファッションブランドが春の新作を出せば大勢の人が買い求めるし、新機能を搭載した次世代のスマホが出れば大行列ができます。

 それがもたらしてくれるものが本物であれ錯覚であれ、私たちは欲しいモノを追いかけ、一喜一憂しながら彷徨っているのです。

 しかも、アレが欲しいとか、もういらないとかを判断する人の感覚が、そもそもあてになりません。仏教では、人の感覚器官である「視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚」の五感に「意識(心)」を加えて「六根」として、この六つの集合体で目の前のことを認知すると考えます。

 ところが、六根の感覚は実にあいまいです。視覚なら、同じ長さのものがAさんとBさんで違って見えたり、嗅覚もニオイの感じ方は個人差がありますよね。「心」もあちこちへ移ろうもので、怒ったり、不安になったり、泣いたり笑ったり、ドンと落ち込んだりしますが、一晩寝たら忘れていることもあります。

 ですから、私たちが物事をありのままに見ることはとても難しいのです。結局、感覚のままに欲を貪り、流される生活をしているといつまでも満たされず、常に「ああ、苦しい」と感じる人生になってしまうわけです。

 だからこそ、お釈迦様も、「苦しみの輪廻から脱却するには、もう出家しかない!」と人生をガラッと変えています。そう、お釈迦様も苦しんでいたのです。