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教訓、真理、知恵などは一見すると抽象的で分かりにくい。しかし、ストーリーに乗せて寓話にすれば、その教えは心の奥にスムーズに届けられるという。人生について考えを深めたり、スピーチの材料にも最適な寓話に耳を傾けたりしよう。本稿は、戸田智弘『人生の道しるべになる 座右の寓話』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を抜粋・編集したものです。
「教え」を物語で包み込んだ寓話
二重構造が生む3つの効果とは
心理学者の河合隼雄は『おはなしの知恵〈新装版〉』(朝日新聞出版)の中で、自然科学の力と対比しながら「おはなし」の力について次のようなことを述べている。
「『私』という人間がこの世に今存在し、しかも必ず死ぬということはまったく不思議なことである」
たとえば、他人の死については自然科学的に解明できるだろう。しかし、自分の家族の死、自分自身の死となるとどうだろうか。それを自然科学的な説明で自分の心の中におさめることは困難である。人間の生や死という問題は合理的な考え方だけで片づけられるものではないからだ。「おはなしは非合理であったり非論理的であったりする」
だからこそ、こういった不思議さを主観的な納得をもって自分の腹におさめる力を「おはなし」は持っている。人間は「自分の人生を、かけがえのない全き人生として生きる」ために「おはなし」を必要としているのである。
そうした寓話の魅力とは、教訓や真理、知恵といった〈教え〉を楽しみながら吸収できることだ。寓話の構造はその核に〈教え〉があり、その核を物語が包みこんでいると説明できる。
なぜそのような二重構造をしているのか。〈教え〉を物語で包みこんで差し出すこと(単に〈教え〉を説くだけではない)によってどのような効果が生まれるのだろうか。
1つ目は、説教臭さが減じられることだ。
私たちは説教されることに少なからぬ拒否感を覚える。これは子どもから大人まで年齢を問わない。しかし、物語には喜んで耳を傾け、物語の中に含まれている〈教え〉を楽しみながら自分で見つけ出そうする。
2つ目は、抽象的な観念(=〈教え〉)が具体性を持った物語で表現されることによって、〈教え〉がより理解しやすくなることだ。
たとえば、「勇敢であれ」「謙虚であれ」と言われてもその意味するところをつかむのはなかなか難しい。しかし、抽象的な観念を物語に託してわかりやすく表現されることによって、私たちはその意味を了解しやすくなる。
3つ目は、物語に入りこむことで感情が喚起され、〈教え〉がより強く自分の心に刻まれることだ。
物語は私たちに、人生のさまざまな問題を擬似的に体験できる機会を提供してくれる。
この疑似的な体験によってさまざまな感情(主人公への共感や反発、ストーリーへの期待感、結末に対する驚きや安堵など)が私たちの心の中に沸き起こる。感情を伴う体験は何よりも記憶に残りやすいのだ。
ここで〈教え〉に富んだ3つの寓話を紹介したい。
『お釈迦様が問う人生の長さ』
何を積み重ねると人の一生になるか
弟子の1人が「50年くらいでしょうか」と答えると、お釈迦様は「違う」と言った。
今度は別の弟子が「それでは40年くらいでしょうか」と答えたが、お釈迦様は首を横に振った。
「30年くらい?」「20年くらい?」「10年くらい?」……。お釈迦様はいずれの答えに対しても首を横に振るだけだった。
ついに弟子の1人が「1時間くらい?」と答えた。それでもお釈迦様は首を横に振るだけだった。
そして、最後にある弟子が「一呼吸の間だけでしょうか」と答えたところ、お釈迦様は初めて「その通り」と大きくうなずかれた。
呼吸とは、息を吸ったり吐いたりすることで、空気中の酸素を取り込み、二酸化炭素を外に出すことだ。もう少し詳しくみると「息を吸う」(約1秒)→「息を吐く」(約1.5秒)→「休息期」(約1秒)という流れになる。
一呼吸に要する時間を4秒とすれば、私たちは1日に21600回の呼吸を繰り返す。一呼吸の積み重ねが1日であり、1日の積み重ねが1年、1年の積み重ねが人生だと考えれば、一呼吸の積み重ねが人生ということになる。
教育学者の齋藤孝は休息期(息を吐ききって次に息を吸い始めるまでの間)について興味深いことを述べている(『呼吸入門』角川文庫)。
休息期とは「生きていることの中にすでに死が紛れ込んでいる」という「一番神聖な瞬間」である。それは「仮に訪れた死という瞬間」にも思える。その瞬間、瞬間を「平静に受け入れる」ことが「1つの死生観の訓練にもなる」。そう考えれば、一呼吸、一呼吸が死の予行演習をしていることになる。
『画家ロセッティと老人』
才能は使わなければ消えていく
ロセッティは丁重に「これは人並みの出来だ」と答えた。そこで老人は、他にも数点の絵を見せた。
明らかに若者の手によるとわかるその作品にロセッティは目を奪われ「これは確かに偉大な才能の出現であり、訓練と練習を積めば大画家になれるであろう」と褒め称えた。







