『いのちの初夜』は“こうして生まれた”――川端康成と北條民雄、2人の文豪が交差した瞬間
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川端康成が改題して作品の公表へと道を拓く
ソウル生まれ。本名・七條晃司。代表作は『いのちの初夜』。高等小学校を卒業後、上京し、法政中学夜間部で勉強するなどプロレタリア文学を志すが、19歳でハンセン病を発症。東京・東村山のハンセン病療養所「全生病院」(現・国立療養所多磨全生園)への入院を余儀なくされる。病院から川端康成に作品を見てほしいと手紙を書き、作品を執筆。自身の経験をもとに書いた代表作『いのちの初夜』は、小林秀雄が「文学そのもの」と評するなど文壇から高い評価を得て、第2回文學界賞を受賞、芥川賞候補にもなった。作品集『いのちの初夜』がベストセラーになったものの、腸結核のため、その短い一生を23歳で終えた。
■『いのちの初夜』を世に出した川端康成
北條民雄著『いのちの初夜』が世に出るきっかけとなったのは、川端康成でした。
すでに作家としての地位を確立しており、小林秀雄や林房雄とともに文芸誌『文學界』を手がけていた川端に、北條は作品を送ったのです。
■タイトルを変えた川端の助言
川端は、北條が描き下ろした短編小説に衝撃を受け、高く評価して『文學界』への掲載を決めます。
最初は『最初の一夜』というタイトルでしたが、川端の助言で『いのちの初夜』に改題され、『文學界』(1936年2月号)に掲載されました。
■一躍注目作家に――生前唯一の作品集
このように川端を介して『いのちの初夜』が日の目を見て、北條の創作活動が大きく広がるきっかけとなったのです。
『文學界』で発表された同じ昭和11年(1936)年の12月、北條の生前唯一の作品集『いのちの初夜』が発売されると、大きな反響を呼び、わずか1カ月で5刷の重版となるほどの人気となりました。
■成功の陰で、身体は蝕まれていった
ところが北條は、作品の成功の陰で体調を崩してしまいます。
年が明けて正月を迎えると、激しい神経痛と結核に苦しみ、重病患者の病室へと入れられたのです。
■「腸結核」との診断、進行する病状
その後も体調は悪化の一途をたどり、時おり外出はしたものの、下痢が続きます。大腸に炎症が起きることで、腹痛や下痢・下血が起きる「大腸カタル」や「腸結核」と診断されました。
ハンセン病だけでなく、さまざまな病気が体を蝕んでいったのです。
■日記に綴られた、叫びにも似た痛み
病室から動けなくなった北條は、日記に次のように記しています。
「慟哭したし、泣き叫びたし。この心いかんせん」
『北條民雄 小説随筆書簡集』(講談社文芸文庫)
■23歳、短くも濃密な作家人生の終幕
昭和12(1937)年12月5日、北條はわずか23歳でこの世を去りました。
青春の絶頂期にハンセン病を発症し、結婚生活も短命に終わったその人生は、あまりにも短く、あまりにも過酷なものでした。
※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。