「いくらエンタメ誌だと言い訳したところで、売らんかなでプライバシー侵害や名誉毀損をしていることは正当化でないぞ」というお叱りが飛んできそうだが、筆者もその通りだと思う。
これまで述べたように、週刊誌というのは確信犯的に「イエロー・ジャーナリズム」(部数を上げるための扇情的なニュースづくり)をやっているので当然、そこで傷つけられる人もいれば、人生を狂わされてしまう人も少なくない。
テレビや新聞の記者は「我々は正義のジャーナリズムでござい」という感じで、どこか自分たちを特権階級のように勘違いしている人も多いが、週刊誌で10年、20年と働いている人はそういう勘違いをしている人は稀だ。自分たちが「人の不幸でメシを食っている」ということを自覚して、後ろめたさや葛藤を感じながら働いている。
もちろん、雑誌の存続のためとはいえ、そういうことをしていいのかという批判は当然あって然るべしで、そのような声が増えるにつれて、週刊誌の部数も落ち込んでいる。
「人殺しの顔を見たい」はダメ?
週刊誌のビジネスモデルは限界
ただ、一方でこのゲスな野次馬根性や「当事者の肉声へのこだわり」があることで、社会に貢献できているところもある。政治や企業のスキャンダルだ。
芸能人の不倫だけではなく、日本で政治家や企業のスキャンダルというものの多くが「週刊誌発」であることに異論を挟む者はいないだろう。
これは我々からすれば当たり前だが、世界的に見るとかなり「異常」なことだ。米国のOpen Source Centerというメディア研究機関は、「政治や企業などほとんどのスキャンダルは新聞ではなく、週刊誌や月刊誌から公表されている」と驚きを交えてレポートしている。
では、なぜ政治や企業のスキャンダルは週刊誌、特に文春・新潮の独走になってしまうのか。「記者クラブ」という国際的に批判される「言論統制システム」でテレビや新聞が機能していないことに加えて、文春・新潮はどんなに政治的意図を持つリークであっても「売れる」ということであれば、躊躇なく乗っかる「エンタメ誌」ということが大きい。