父はハワードさんと英語で話していたが、私はわからないので、この日本の人に話をきいていた。そしたら今日出した食器は100年前のもので、いちばん大事なお客さんだけに出すのだという。それで欠けたお皿のことがわかり、私は感激してしまった。

祖父が住んでいた家を見学すると
フィリピンのエラい人が住んでいた

 次にハワードおばあさんの案内で、おじいさんが住んでいた屋敷を見に行った。ここは今はフィリピンの人が買いとって住んでいるのだが、ハワードさんが、この人に話をつけておいてくれたのだ。

 このフィリピンの人は、私の家とは関係のない人だが、やはり私たちをとても歓待してくれて、家中を案内して見せてくれた。

 父は玄関を見たとき、

「あ、これだこれだ、写真でしか見たことがなかったけど、そのまんまだ」

 と言っていた。

 中に入ってテラスから煉瓦の階段を下りて中庭に出ると、父は真っ赤な顔して興奮して、

「おれが50年間いつも夢に見てたのはこの家だったんだよ!」

 と何度も何度も言った。夢の中にいるようだ、とも言った。父が20歳のときアメリカに帰ってそのまま死んだおじいさん(当時アメリカでは排日運動がさかんだった。親日家で日米協会の初代会長のおじいさんは排日反対の演説をカーネギーホールでしている最中に倒れて死んだ)の家に、今、立っているのだから、父の気持ちはどんなだったろう。そんなわけでこの旅行は私の一家にとって「かっきてき」だったのです。

 この家に立っていると、父が小さい頃、おじいさんが話してくれたことがどんどん思い出されてくる、と言っていた。

 このフィリピンの人に話をきくと、この人は、前マニラ市長で、フィリピンの副大統領でもあった人だった。この人は、この屋敷の落成式の写真をたくさん持っていて、その写真には、もちろん私のおじいさんがいっぱい写っている。