キャンセルカルチャーで打たれやすいプラットフォームが、同時に大量の情報を提供する担い手になっている
橘 それは確かにプラットフォーマーの問題なんですけど、プラットフォーマーも好きで規制しているわけでないと思うんです。イーロン・マスクがツイッター社を買収したときの舞台裏を描いたノンフィクション(ベン・メズリック『Breaking Twitter イーロン・マスク 史上最悪の企業買収』井口耕二訳/ダイヤモンド社)を読むと、ツイッター創業者のジャック・ドーシーは、右からも左からもすごく叩かれて、本当にイヤになっちゃって、出した結論が「そもそもツイッターを営利企業にしたのが間違いだった」なんです。最初からTCP/IP(インターネットの通信規格)のようなプロトコルにすべきだったと後悔している。
営利企業だと広告主に気を遣わないといけないし、何かするとリベラルから叩かれ、そっちに配慮すると今度は保守派から叩かれ、サンドバッグみたいになってしまう。とてもじゃないけどやってられないという時にイーロン・マスクから買収提案があって、渡りに船で喜んで売っちゃったという話なんですね。
フェイスブックも同じで、2020年の大統領選挙ではトランプの根拠のない発言(悪口)をどうするかで社内は大揺れになるんですが、連邦議会議事堂事件が起きるまでアカウントを凍結する決断ができなかった。トランプがいることでアクセスが増えるというのもあるでしょうが、いちばんの理由は保守派から叩かれ、議会に呼ばれて吊るし上げられるのが怖かったからでしょう。
山田 まさにキャンセルカルチャー。キャンセルカルチャーで打たれやすいプラットフォームが、でも、実は同時に大量の情報を提供する担い手になっちゃってるところが大問題だと思います。今、既存のメディアは衰退していっています。そのような既存メディアが衰退していく中で、若者だけでなく、多くの人たちがどこから情報を得てるかと言えば、プラットフォーマーから情報を得ているわけです。
私は一方的に垂れ流している既存のメディアが全部正しいとも思わないけれど、いわゆる既存のメディアの唯一の強さって、打たれ強かったことだと思うんですよ。そこは逆に言えば、偏向報道もあったかもしれないけれど、人が介在しているという思いがものすごく強くて、どんなに文句を言われようとも、これは社会のために伝えなければならないのだというジャーナリズムがあった。
でも、ネットのニュースってジャーナリズムとかそういう発想ではなくて、どれだけ大量にコピーして伝えることができて、その背景では広告料が上がって……ということがカチッとできていて。そこにプラスして、橘さんがおっしゃられるように打たれ弱いときているから……。しかも、フィルターバブル(インターネットのアルゴリズムがユーザーの行動履歴に基づいて、特定の興味や価値観に合った情報のみを表示する現象)と言われるように、システムとしてよくできていて、やっぱり心地よい。自分のフォロワーになっているのは基本的に自分と同じようなグループの人たちで、その間でデータなり、情報なりがやり取りされていれば、それはやっぱり信じたいし、それが正しいとどんどん思っていく。これ、すごい世界だと思うんです。
橘 プラットフォーマーが絶大な力を持っているのはその通りだと思いますが、その一方で政治的に微妙なコンテンツをどうしたらいいかわからず右往左往している。だからトランプ政権になって、たぶんホッとしてると思うんです。大統領令で面倒なファクトチェックやコンテンツモデレーションから解放されるなら、そのほうがいいという感じじゃないですか。
ただ、やはり何かあると炎上するので、プラットフォーマーはそういうリスクをできるだけなくしたいと思っている。右でも左でも、活動家はそれを知っているから、打たれ弱いプラットフォームを狙い撃ちにする。だから、なかなか難しいですよね。
プラットフォーマーに対し、最近の日本の政治はどう動いているのか?
山田 プラットフォームの課題って2点あると思っています。一つはそのプラットフォーマーが政治の介入を受けるかどうか。それからもう一つは生成系AI時代のプラットフォーマーのあり方。これがたぶんガラッと変わる。検索を中心としている世界から、生成系AIで、一方的に1つの答えを出してくるということになり、状況が変わってきちゃったんですね。
まず一つめの政治の方で今、何が起こっているかというと、ここ1年ぐらいが変化点というか、勝負だったんです。各国政府もそうだし、日本は特に総務省を中心に表現の自由を保障した憲法21条の絡みがあるということで、通信の秘密とか、表現の自由を守るために、プラットフォームの中身については監視、関与しない。
イメージとしては道路です。道路には申し訳ないけれど、悪人が通ろうと、犯罪者が通ろうと、極端に言えば殺人鬼が通ろうと、すべてに検問を置いて、必要もないのに監視するっていうことは我々はやりません。だから、プロバイダー制限責任法という名称のもとで、プロバイダーのみなさん、責任を取らなくてやってていいんですよっていうことを何とかキープして、制度もそこについては干渉も関与もしない。プラットフォーマー側も、何か問題あるものがある程度通ったとしても、できるだけ干渉しないっていう立ち位置でやってきたんです。
それが最近の情報流通プラットフォーム対処法(情プラ法)で、一定の関与はしてくださいとなって。もちろん、人権に問題があるようなものに関しては削除する。ただ、削除する場合にも、削除の基準を作って、きちんと削除してくださいよと。こういうふうに整理し始めたということで、今ギリギリ、プラットフォーム、いわゆる打たれ弱くて、1つの価値観を強烈に作り上げてしまうプラットフォームに対するつき合い方が変わってきているんですね。
でも、日本の基本的立場は、あくまでそこに対してできるだけ関与はしないということです。ただ、他国は別で、イギリスは相当関与するし、オーストラリアに至っては16歳未満はSNS使っちゃいけないと、世界的に見るとかなり強権的に管理し始めた。
橘 デジタルは管理できそうに思えますからね。
山田 これ、慶応大学の村井純先生もよく言っていたんですけど、通信とインターネットはまるで別物なんです。通信は有限の電波を国が担い手として貸しているという世界だから、これは放送を含めて管理をする。インターネットのスゴさっていうのは、誰も管理をしていないカオスの無秩序だからこそ、そこにいろいろな人が入ってきて、良くも悪くも発展してきたと。管理の先にインターネットの発展はないんじゃないかと村井先生はよくおっしゃっていた
インターネットは元々そういうふうに作った。軍事技術的には核戦争が起こったとしても、インターネット網っていうのは、管理されないままで、ずっと生き残られるように作ったわけですね。
芸術と芸術でないものを誰がどういう基準で区別するのか?
橘 政治家としては、やってる感を出さないといけないわけじゃないですか。でもそうやって規制を強化して、クレジットカードで決済できなくなればビットコインのような暗号通貨を使えばいいし、プロバイダーでブロックされたら、ダークウェブにコンテンツをアップすればいい。でもそれは国の責任ではないから、本音はどこも「うちの裏庭だけきれいならいい」なんじゃないですか。
山田 政治家の立場からすると、特に与党の中にいてわかってきたのは、政治って、立法府としての国会もそうなんですけど、良くも悪くも秩序を作る機関なんですね。毎年60~100本の法律を作るわけです。つまり、100個の秩序を毎年、毎年、作り上げる。もっと言うと法律を廃止するにも法律を作る。こういう類いの習性を持つ人たちですから、もしかしたら、やたらと規制は作りたいし、秩序を作りたいところがある。それが我々の仕事なんですね。
だから、どちらかというと、「自由であれ」ではなく、政治の世界に関わると必ず規律、規制ということが話題になる。それはやっぱりお互い、何かぶつかった時に何にも問題がない世界ってないから、何かおせっかいでも解決しようとするっていうのが、どうしても政治家と政治の習性なんです。政治家が触っちゃうと、なにか作られるんです。だからほっとかれるかどうかなんですよ。
表現の自由もちょっとそういうところがあって、今までは要はサブカルチャーなんていうのは、ほっとかれたから良かったんです。私なんかコミケの話を表現規制の絡みだとか、二次創作の問題で、国会で扱わざるを得なくなったんで、国会でも初めてコミケとか同人といった言葉を使いました。そうしたら、答弁した総理もそんな言葉を使ってるって、その界隈の人たちはビックリしてましたけど。サブカルが表舞台に出てきちゃったのは、まあそれだけパワーを持ったことを意味するとは思うものの、それは本来、表に出てくるべきものではなく、それを政治が触っちゃうということが必ずしもいいことじゃないだろう、というのが僕が悩んだことです。
橘 そうですね。サブカルってもともと「高尚なひとたち(ハイカルチャー)」から相手にされないところで、自分たちだけで好きにやっていけばいいというところで始まったわけですから。著作権とか、そういうものもとりあえず緩くやりましょうという暗黙の了解で成立していたわけですよね。
山田 けれど、そんなサブカルも、私が守る立場として存在していないと、どんどん規制されるようになってきてしまった。いるんですよ、議員の中でも。わざわざコミケ行って、何か買ってきて、「こんなとんでもないエログロ暴力のシーンがあるものを、あなたの子どもたちが平気で見てたりするんですよ」と。そうしたら、PTAの人たちからは「まあ大変、私の息子娘のベッドの下からこんなものが出てきました。これはさすがに先生、何とかして規制してくださいよ」と言われて、「わかりました」って。これ、すごい票になりますしね。
橘 秩序を作る時は、結局、道徳の話が出てくるじゃないですか。私がいちばん苦手なのは、「なにが道徳的に許されて、なにが許されないのか、自分はわかっている」と信じている人なんです。右だけじゃなく左にもこういう人がけっこういて、ものすごく傲慢だと思うんですけど、自分では「正義」のために頑張っているんだと確信している。こういう人たちが、ナチスのようなファシズムの社会をつくったんだろうなと思います。
生成系AI時代に入ったプラットフォーマーの問題とは?
山田 先ほどプラットフォームの課題は2点あり、一つが政治の介入を受けるかどうかという点、2つめが生成系AI時代のプラットフォーマーのあり方だとお話しました。
二つ目の「生成系AI」の問題に話を移すと、今まではグーグルなどで検索するとダーッと10~20個ぐらい検索結果が並ぶわけじゃないですか。検索した人はその検索結果を見て、そこから選択してクリックしていく。もちろん何を1位に出しているかっていうのは重要だから、そこのアルゴリズムが怪しいとかっていろいろ言われていたけど、検索する人間に選択権は残ってたんです。
でも、今は検索エンジンに生成系AIがくっついていて、最初に生成系AIが1つの答えを出しちゃうんです。一応、検索結果も表示されて選択肢がありますし、今、生成系AIはギリギリのところで、これはどういう根拠に基づいてこういう答えを出したのかということはクリックしたらたどれることになっているものの、でも、生成系AIは一発で答えを出しちゃってるわけですよ。
だから、マルチでいろんな意見があるんですよって、検索エンジンの方が出してくるのではなくなっている。これからそれぞれの生成系AIがプラットフォームにおいて1つの答えを出しちゃうことになるのはまずいんじゃないかと。そこに選択肢がなくなってくるんじゃないかということは、大きな問題があると議論しているんですよね。
以前はたとえば、「A」「B」というそれぞれ別の表現があり、同じ表現の自由というテーブルの上に載り、仮にどちらかが規制されたりすることがあっても、それらが戦うことができていました。だけど、生成系AIのやり方だと、そもそも規制されてることをAが知らない。Aというものがこの世の中から存在しなくなってしまうことが恐ろしいと思うんです。頭の片隅とか、経験値に本来存在していたものがスポンとなくなっちゃうわけじゃないですか。
橘 AIについては画像生成と著作権の問題が議論になっていますが、いまや生成AIは質問に答えるだけじゃなく、主張までするようになったじゃないですか。そうなると、個人的に興味があるのは、「AIの言論の自由はどうなるのか?」です。もちろんAIに人権はないでしょうが、人間と区別がつかなくなったAIがSNSでいろいろな政治的主張をするようになったときに、リベラリズムの理想である「思想の自由市場」はどうなってしまうのか。
山田 AIを含む表現の自由なんて、全く想像もできない世界になってしまいますね。
「犬食」に象徴的に表れている価値観の変化という圧力
山田 ところで、そもそも表現の自由っていうのはイデオロギーの問題なんでしょうか? 僕も当初はイディオロギッシュだなという思いがあったんですけど…。ただ、右でも左でもないですよね。
橘 価値観だと思うんですよね。そして、価値観はやはり時代の影響を大きく受ける。じつは法による規制よりも、価値観の変化の圧力がずっと大きいかもしれない。
たとえば「犬食」を考えてみましょう。朝鮮半島とか中国の東北部は伝統的に犬食の文化がありますよね。20年くらい前に朝鮮族が住んでる中国の延辺地方に行ったことがあるんですが、50~60匹の食用の赤犬を散歩させている人をよく見かけました。それをヨーロッパにもっていって、犬を羊に変えれば牧歌的な風景ですよね。でも、今は犬食なんて絶対認められないじゃないですか。
でも、犬と羊のどこが違うかは論理的に説明できないでしょう。哲学者のピーター・シンガーのようなヴィーガンなら、肉食はすべて悪だから一貫してると思うんですけが、ステーキやハンバーガーを食べてる欧米人が犬食を批判するのは偽善の最たるものですよね。
日本では犬食を禁じる法律はないと思いますが、私が犬食レストランを始めようとしたら大炎上するでしょう。「法律に違反していないし、個人の自由だ」と言ったところで、まったく聞いてもらえないし、殺人予告を受けるかもしれない。
でもこれは、「犬はライフコンパニオン」という欧米の価値観があって、それを食用にするなんてとんでもないという価値観がグローバルに広がっていったからです。こうして「犬食は文化」というローカリズムは全否定されてしまった。捕鯨にしても同じだと思いますが、こういう価値観の巨大な潮流には容易には逆らえません。
山田 それは、たぶんネットの中でも、もうさまざまな流通している意見の量が全然違うんですよ。やっぱり、そこの物量で個人と意見というのは負けちゃってるから。まだおおらかな時代っていうのは、伝え手の熱量でもってコントロールできる時代だった。今はもう物理的な情報量が決め手になってしまって。
橘 あと、マイナーでローカルな文化もネットで拡散してしまうということもありますよね。かつてなら閉じられた世界で好きな人たちがやってたことが、写真や動画で世界中に広がってしまうから、グローバルスタンダードに合うローカルな文化しか認められなくなっている。残念ながら、この流れは避けようがないように思います。