法による規制よりキャンセルカルチャーの方が強いのに、なぜ国連のお墨付きがほしいのか?
橘 表現の自由に対しては法による規制が問題になりますが、それとは別に「キャンセルカルチャー」がありますよね。いわゆる「ポリコレ(ポリティカルコレクトネス:政治的正しさ)」なんですが、この圧力というか、委縮効果はSNSの時代になってものすごく大きくなっている。だとしたら、規制派は別に法律など作らなくても、キャンセルだけで十分、目的を達成できると思うんですけど、やはり国連が…とか、法律が…とか、そういうお墨付きが欲しいものなんでしょうか?
山田 たぶん、そうなんです。僕は常々言ってるんですけれど、確かに人権も重要だし、国際的な秩序っていうのがあるから平和も保たれているわけだとは思うんです。人権はグローバルなものっていうのはありだと思うんですよ。人権も守れないような国もたくさんあるし、日本はややもすると、やっぱり非常に人権意識が弱い国だったというのは事実だと思います。
絵に描いた女の子にも人権、人格があるというのは世界でそういった議論が進んだところから輸入されたもの。リベラルの本質というのは、基本的に輸入品。それを僕は必ずしも悪いとは思いません。だけど、問題は文化っていうのは何なのかっていった時に、元々引き継がれて国内にあったもののわけだから、それをかなぐり捨てちゃダメだと思うんですよね。
だから、文化、カルチャーというものはドメスティックで、輸入品とのぶつかり合いは常に議論されて、咀嚼されるべき。日本っていうのは、そういう意味で、舶来ものをうまく国内に輸入して取り込んで、自分たち流にしちゃうというのがうまかった国だと思うんだけど、今はパッケージにして、急にそのまま持ってこられて、それが「正」であるとしているところがある。これは正直言って、ネットとかプラットフォームの影響が大きいと思います。

「ゾーニング」の問題は、今、どうなっているのか?
橘 表現規制の話には必ず「ゾーニング」の議論が出てくると思うんですが、それに関してはどうなっていますか?
山田 ゾーニングってすごく勘違いされていると思っていて、何となくゾーニングって選択肢があると思ってる人が多いんですよね。たとえばAゾーン、Bゾーンというのがあるよって言って。Bゾーンというのは、たとえばさっき言ったエログロ暴力のシーンで子どもがアクセスしちゃいけないよっていうのが設定されてて、選択肢があると。けれど、ネットにおけるゾーニングって何が起こるかというと、Bゾーンが元からなかったことにされちゃうんです。ということは、Aゾーンしかなかったっていう議論になっちゃうんですね。
ゾーニングといっても、区分されているという話と、元々見えないっていう話は全然違うんだということです。ゾーニングの質もかつて議論していましたが、コンビニのようなところで成人コーナーに向けてゾーニングがあったり、あるいはビデオ店の向こう側にそういうものがあるのだという世界。それは向こうに行っちゃいけないよっていうけれど、向こうの世界はチラリと見えている。
でも、ネットにおけるゾーニングってまさにクレカ問題と同じで、BANされちゃう。アクセスも一切ないから、存在しないも同然という可能性があるんですよ。
あと、もう一つはゾーニングというのは今の法律上の枠組みでいくと、条例であれ、法律であれ、いわゆる行政の強制力がないとできないものなんですよね。自主的にたとえばゾーンを敷いてるっていうものは、ただ超えていってしまうだけの話だから。そういうものもあることはあるんですけど。今、議論されてるのは、青少年健全育成条例とかもそうですけれど、基本的にはこういうものは子どもの目に触れないところに置きなさいよっていうのを、いわゆる行政とか法律とか、条例に基づく強制事項として扱うということですから。
それがネットの世界の中で適用されるのと、物理的なネットじゃないところで適用されるのは先ほど話した通り、質的に全然違う。
橘 出版が典型ですが、これまでのゾーニングは法律や条例というより、業界団体の自主規制でやってきて、それでなんとなく話が丸く収まっていた。政治家はわざわざ面倒な法律を作らなくてもすむし、出版業界も社会の要請と表現の自由のバランスを取っていると説明できる。読者も、特定の本が欲しければ、そういう書籍を扱っている書店に行けばよかった。ところがネットの場合は、そもそも業界団体がないから、どうにもしようもないっていうことかなと思ったんですが…。
山田 ネットの場合、まず、エロ広告みたいなものについて議論があって、自分が見たくもないのに勝手に広告が出てきます、けしからんと。こういう議論が今、ホットなんですけれど。これはまずね、どこに責任があるかっていったら、僕はサイトだと思うんですよ。訪れたサイトがあって、そこがいわゆる物理的なお店で言うと、お店になるわけですけど、まずそこを訪問しましたとしましょう。そうしたら、そこに自分が好まないどころかイヤなものが置いてあったら、それは本来、そこのお店のレピュテーション、評判の問題じゃないですか。だからお店はそんなもの置かないようにするっていうだけの話だから。ネットの場合もそうで、そもそもそういった広告を出すようなしくみ仕組みにしている側が評価を受けて、けしからんって言われればいい。そんなものは政府が規制するとか、誰かが規制するっていう前に、いやいや、サイトで出すのがまず問題なんでしょと。
それから広告主の側も、そんなところでクリックされても商品は買われず、広告料を払わされちゃって、損しちゃうみたいなことになるわけじゃないですか。だから、本来はそういう意味でアドネットワークの世界の中のDSPとかSSPとかの仕組みでもって、本来は自主規制が行われているはずなんですよね。そこをちゃんと強化すればいいだけの話だと思うんです。
誰もが見るわけではない、お金を払って行く人しか見られない美術館に展示された絵画がキャンセルされてしまう衝撃
橘 駅の広告に萌え絵が使われるのが問題になるのも、自分が見たくないものを見せられるからで、それを描いた作家には苦情がいきませんよね。つまり、その絵を描くのは勝手だし、その本を買って読むのも勝手だけど、私はその絵を見たくないのに、なぜ公共の空間に掲示するのかという怒りだと思うんです。そういう細かなゾーニングは、これからますます要求水準が高くなっていくんじゃないかと思うんですよね。
山田 それはあると思います。
橘 これはJRなどの鉄道会社が、レピュテーションを考えて、炎上しそうなものをできるだけ表に出さないようにするという話ですが、『世界はなぜ地獄になるのか』(小学館新書)で取り上げた現代美術家の会田誠さんの、手足のない女の子と月を描いた作品は、キャンセルの標的になったのが森美術館でした。美術館なんだからお金を払ってその作品を見にいくわけだし、さらに美術館内でもゾーニングされた区域に展示されていた。森美術館は抗議を受けても展示を続行しましたが、あいちトリエンナーレでは右からのキャンセル運動によって企画が中止になってしまった。だから左だけを批判するわけではありませんが、ゾーニングしていてもキャンセルの対象になると、ますます歯止めがなくなっていくような……。
山田 自分で選択して行っている先で、そもそもそこに柵があるのであれば、本来は何の問題もない。
橘 そういう常識すら通用しないのか、というのはやはり衝撃的でした。でもこれは海外も同じで、美術館や美術展のキャンセル騒動がかなり起きているようなんです。ほとんどは種問題で、あとはホロコ-スト関連。奴隷制度に反対する意図で奴隷貿易時代の黒人のオブジェをつくったら、制作者が白人だという理由でレイシズムと見なされ、キャンセルされたとか。ゾーニングしているから問題ないという議論も成立しなくなってくると、表現の自由は結構、難しいなぁと。
みんな「カンファタブル」を求めているが、多様性が進んでいけば、社会はギスギスしたものになっていく
山田 好き嫌いとか、気に入らないってことで、キャンセルされるかどうかが決まってしまう面がある。これもよく勘違いされるんですけれど、表現の自由っていう言葉、すごくきれいじゃないですか。みんな、言うんですよ。表現の自由は大事だ、表現の自由はすばらしい。だけど、イヤな話なんですよ。表現の自由というのは。これは、ある人にとってみるとイヤなものを、寛容に認められるかどうかっていうのが実は表現の自由なんだと。だって、全員がいい表現だと思ったらもめないわけだから。表現の自由なんて、話題にも議題にもならないわけじゃないですか。表現の自由って僕はやってますけど、すごくイヤな話はいっぱいあるわけです。お互いがぶつかり合う話はすごく多い。
橘 「多様性」ってみんな、すばらしいと思ってますよね。あれもまったくの勘違いで、多様性を認めたら、価値観が違う者同士が対等の立場でぶつかるわけだから、ギスギスした社会になるに決まっています。
ところがリベラルの人たちはそれがわからないらしく、「こんなギスギスしているのは多様性が足りないからだ」と思っている。多様性のある社会で、これまで社会の片隅に追いやられていたマイノリティの人たちが平等な権利を持てるようになるのは素晴らしいことだと思いますが、その代償として社会のいたるところでアイデンティティの衝突が起きる。本来ならリベラルは、バラ色の夢を振りまくのではなく、「それに耐えなければならない」と啓蒙しなければならないはずです。
「多様性のある社会をつくってきたのに、社会がギスギスしているのはどこかに「悪」があるにちがいない。だからもっと多様性を高めるんだ」とやっていると、さらにギスギスしてしまう。Qアノンと同じで、妄想の中で巨大な敵を作っているだけです。
山田 みんな、「カンファタブル」っていうものをメチャクチャ求めてると思うんですね。
橘 イヤなものは見たくない。
山田 そうなんですよ。
橘 「すべてを快適に」って、消費社会ってそういうものですからね。どんどん快適なものを提供すると、お金を払ってくれるから儲かる。そういうことでビジネスが成立している。
山田 でも、好きなものがあるっていうことは嫌いなものがあるわけだし、好きな人がいるっていうことは嫌いな人がいるわけですよね。なのに自分が嫌いなものは抹殺し、自分の周りにあるものを全部カンファタブルにしようとする。
橘 「誰も不愉快にしない言論・表現の自由なら、北朝鮮にだってある」とよく言うんですが、これを理解してもらうのは難しい。さらにいえば、民主社会の市民であればそういう責務があるといえるかもしれませんが、大衆消費社会の消費者にはこれを理解する義務はない。誰だって快適なほうがいいわけですから。
表現者が常に踏まえておかなければならないのは、批判する側にも言論・表現の自由があるということです。ある作品が気に入らないとSNSで批判するのも、デモをするのも、法律の範囲内なら自由です。そういうことを考えると、結構大変です。
構成/井口 稔
■作家・橘玲×国会議員・山田太郎対談後編「ネット上での「匿名表現の自由」は守られるべきなのか? 5%のヘンな人を避ければ人生の幸福度は劇的に上がる」に続く