目指した官学と違う「もう一つの道」
大きかった組織を守るための代償
『早稲田大学百五十年史』は、戦時中の田中の対応について、「田中総長が『学問の独立』に直接触れることはあまりなかった」「田中総長が教旨に言及する際は『模範国民の造就』を強調することがほとんどである」と記述している。創設者の大隈重信は、「国家への貢献」を考えるとき、「政府の意見」と「国民の意志」を区別し、政治による教育支配を拒むために「学問の独立」の必要性を訴えた。だが、「田中総長は本学の役割を追求するという視座が希薄であるようにみえる」と厳しい。
東京六大学では、明治維新前から福澤諭吉によって創設された「私塾」を起源にする慶應義塾大が最も古いが、早稲田は1881年(明治14年)に明治政府を追われた大隈重信が翌年、東京専門学校の校名で創設した。
明治政府は帝国列強による植民地化を恐れて、天皇中心の強力な官権国家の道を目指し、そのための官僚育成のため、帝国大学令(1886年)を受けて1887年、「帝国大学」を東京に設立した。江戸幕府の昌平坂学問所などの流れを汲んでいたいくつかの高等教育機関を「東京大学」の名称で統合(1877年)していたが、抜本的に再編したのだ。1897年、京都にも帝国大学を設立すると、東京帝国大学に改称した。
福澤と大隈は連携して大衆を重視する民権的な社会を目指した。慶應と早稲田は東京帝大とは違う「もう一つの道」を模索するオールタナティブの存在だった。
東京大学名誉教授の吉見俊哉は、日本の大学での東京大と早稲田、慶應など私学の位置付けについて著書で次のように書いている。(注1)