「近代日本の大学で重要なことは、最初に帝国大学として東京大学ができて、それに続いて慶應義塾大学や早稲田大学をはじめとする私立大学ができたわけではないことである。順番はむしろ逆で、維新期における旧士族の若者の危機感を背景にした慶應義塾などの私塾の興隆がまずあり、その流れが大隈重信による東京専門学校設立まで及ぶ中で、そのような草莽の学知に対する反応として帝国大学創設が促されていったのだ。やがて確立してゆく帝大を頂点とする学知のシステムは、幕末維新期にほとばしった新しい知へのエネルギーへの、まずは反動であった」(注1)
日本の高等教育は、東大を頂点とする国立大学中心の体制と考えがちだが、まず私学があり、対抗勢力として帝国大学が設立され、両者のエネルギーのぶつかり合いで発展したのが歴史的事実だ。しかし、戦争に向かう過程で官学も私学も政府・文部省の統制に組み込まれていったのだ。とりわけ、経営の基盤も含め官学に比べて存在基盤が弱かった私学が統制に抵抗するには限界があった。
大学の基盤確立と「学の独立」空洞化
田中総長時代の毀誉褒貶
戦時下、田中総長の時代に「学の独立」が空洞化したことは間違いない。田中にしてみれば、難しい時代に文部省や軍部の攻撃や介入をかわしながら、早稲田を存続させようと必死に力を尽くした、ということになるだろう。
早稲田のシンボルである大隈講堂、大隈銅像、そして重厚なコンクリート造りの建物は、田中が常務理事から総長時代に完成した事業であり、経済難の時代に大学の基盤を確立した功績は小さくない。だが「学の独立」の空洞化は、大きくなりつつある組織を守るための代償であり、国家権力の強大さの裏返しということもできる。
早稲田OBでは、東洋経済で政府批判の論陣を張り続けた石橋湛山や、反軍演説で名高い衆議院議員の斎藤隆夫、外務省の方針に反してユダヤ系難民に独断でビザを発行した杉原千畝らがいたが、大学自体の理念は軍事色が鮮明な田中時代には色あせた。早稲田が再び「学の独立」「在野精神」「反骨精神」を取り戻すのは終戦を待つことになる。