津田は、古事記や日本書紀は史実ではなく、皇室が国民を支配する思想を前提とした創作だと説いた歴史学者だ。津田の学説は大正から昭和の学会に新風を吹き込んでいたが、天皇制否定論者ではなかった。1939年に東京帝大法学部に東洋政治思想史講座が新設されると、当時の法学部教授で戦後総長になる南原繁からの再三の出講要請を受けて、6回の講義を東大で行った。
だが、この講義に対して、右翼勢力からの攻撃が始まる。滝川事件や天皇機関説事件など、台頭した軍部や右翼勢力が自らの世界観や主張に対する異論への「文化戦争」とも言える状況で受け身に立たされることになった。
攻撃の急先鋒は、反共雑誌『原理日本』などを足場に、滝川事件や天皇機関説問題、そして早稲田の文学部講師、帆足理一郎の排撃にも絡んでいた蓑田胸喜だった。
津田の最終講義では、原理日本社の傘下の学生団体メンバーが津田を詰問し、蓑田は、『古事記及び日本書紀の研究』など4つの著書を取り上げ、「日本国体を根本的に滅却する」と批判のキャンペーンを展開した。『原理日本』の臨時増刊号を出して津田攻撃の論文を特集し、内務大臣や警視庁に「津田を起訴しなければ同じ思想の持ち主とみなす」と早急に処分するよう迫った。
責任を取って辞めたわけではない
総長の立場を思って身を引いた
このとき、当時の田中穂積総長は津田とも面会し、学内で連日のように対策を協議した。その結果、4つの著書を絶版とし、日本関係の講義を取りやめにする。津田は当初、「批判は学問的根拠がなく、誇張だ」と拒否したが、田中が文部省と話し合っている様子を察知し、「総長を窮地に陥れる」と思って受け入れた。
文部省は津田の辞職を求める決定を下し、最終的に津田が辞表を提出した。1940年1月のことだ。津田は後に「責任を取って辞めたわけではない。身を引いたほうがよかろうと考えた」と述懐している。