著書は発禁処分、出版法違反で起訴
教壇を去る教員が相次ぐ
著書は発禁処分となり、津田は出版した岩波書店の岩波茂雄とともに皇室の尊厳を冒涜したとして、出版法26条違反で起訴された。同法は出版物の取り締まりを目的に明治時代に制定された法律で、言論統制の根拠となった。
裁判では、岩波から相談を持ちかけられた西田幾多郎、幸田露伴、久野収、和辻哲郎ら著名な学者らが支援した。無罪を求める大学教授らが署名した上申書も提出されたが、東京帝大から33 人が名を連ねたのに対し、早稲田は17 人に過ぎなかった。
書名集めには丸山真男らも動いたが、早稲田大学の津田に対する冷たい対応に憤慨し、早稲田には署名集めに行かなかった。署名したある帝国大学教授は「私学は国家権力にいかに弱いかと思った」と述懐している。
教授の辞職や処分で学内が揺れていた当時の東京帝大に比べ、弾圧の事例は比較的少なかった早稲田だが、1940年前後になると津田事件をはじめ、官憲の圧迫で教壇を去る教員が相次いだ。
文学部助教授で日本史を教えた京口元吉は、独特の毒舌で人気を集めていたが、警視庁が「反軍国的なマルクス主義者で、自由主義的である」と問題視し、大学に対応を求めた。田中は検挙を避け、大学の名声を保持するためとして、京口に円満退職を迫った。京口は抵抗したが、大学に迷惑をかけたくないと最後は辞表を提出した。41年3月のことだ。
その1カ月前には文学部講師の島田賢平が検挙された。社会主義リアリズムを標榜する新興俳句誌を発刊していたが、「反資本主義的で、反戦意識を強調している」として治安維持法違反の容疑をかけられた。早稲田署に留置されたが、肺結核が悪化して釈放され、俳句誌を自発的に休刊。42年に講師を辞任し、2年後に亡くなった。