昨年スーパーからコメがごっそりなくなった際に、そこはかとない不安に襲われた人は多かったそうで、我々日本人が主食のコメに対してどのような思いを抱いているかを垣間見ることができる。それは、「代替可能な嗜好品が品薄になる」といった少しの我慢で乗り切れる生易しいものではなく、ライフラインが直接断ち切られたかのような絶望に近い。

 生物学的にはコメという一品目がなかろうが人間は元気に生きていけるはずなのである。しかし品薄でもたらされた我々の狼狽ぶりから、コメは「食料品の一品目」に留まらず、もっと別の上位存在として認識されているのが如実に伝わってきた。

販売前はネガティブな評
実際食べた人に「古古米の味は?」

 古古米行列のあとには古古米の食レポや、「古古米の味ってどうなのか」という記事や投稿が相次いだ。

 行列に並んだ消費者に張り付いたカメラはご飯の炊きあがりと食事の風景まで収めていて、当然そこでは並んで苦労して手に入れたコメがようやく炊き上がり、期待感と飢餓感から美味フィルターが多分に作用したに違いなく、皆「おいしい」と破顔した。

 行列に並ぶことなく店頭在庫をゲットして、もう少し落ち着いたテンションで古古米を食した人たちはどうかというと、これも「新米に全然劣らない」とする声が多かった。古古米販売前は味に関して結構ネガティブな評が多く出回っていたのでこれは意外であった。

 ただこれは、「よく知らない人の陰口は叩きまくれるけど、その人のことを少し知ったりその人を前にすると悪口が言えなくなる現象」に近いかもしれない。古古米を実際に口にした今、そう悪くは言えなくなってしまったわけである。もちろんそうした面倒な感情の機微は関係なく、味の面で新米に比べてそん色なかった可能性もある。

 また、高騰後のコメは尋常でなく高く、コメを食べることにいちいち何か引っかかりが生まれるようになってしまった。それはパスタやうどんといった他の炭水化物の選択肢の中から敢えて最も高値のコメを選び食すことへの罪悪感や、週に5日は他の炭水化物で我慢するが2日だけはコメ食が許可されるセルフルールゆえの、もはや貴重なご褒美としてしかコメを食べられなくなってしまった葛藤する味覚……などである。

 だから高騰前の価格に近い古古米はそれらの引っかかりを感じる必要なく心置きなく楽しめるコメとして、消費者を一層喜ばせたのであった。