
第32代首相を務めた広田弘毅
自民党幹事長を務めた山崎拓
福岡市早良区にある県立高校だ。江戸時代にできた藩校「修猷館(しゅうゆうかん)」を令和の現在に至るまで名称として使用してきた高校だ。240年余の校歴を誇り、多くの俊英を世に送り出している。
戦前に第32代首相を務めた広田弘毅が、修猷館を象徴する卒業生といえるだろう。石屋のせがれから立身出世し位を極めたが、敗戦後の極東国際軍事裁判では、文官では唯一のA級戦犯となり死刑に処せられた。
広田は福岡県立尋常中学修猷館(現県立修猷館高校)時代から外交官を志しており、陸軍士官学校への進学を避け、旧制一高―東京帝大を経て外務官僚になった。1933年に外相になり、36年3月~37年1月の間、首相に就任した。
中野正剛と緒方竹虎は、修猷館―早稲田大―ジャーナリスト―政治家と、似たようなコースをたどった。雄弁家で大衆的人気を誇った中野は、戦時中の43年に東條内閣の倒閣工作を図った疑いで拘束され、割腹自殺した。
朝日新聞社主筆・副社長を務めた緒方は、55年の保守合同で自由民主党が結党された際、初代総裁候補として最有力視されていたが、急死した。修猷館としては、広田以降2人目の首相誕生を逃したことになる。
首相の座といえば、自民党幹事長を務めた元自民党副総裁の山崎拓(修猷館高校―早稲田大卒)は小泉純一郎(神奈川県立横須賀高校―慶応大卒)と加藤紘一(都立日比谷高校―東大卒、2016年死去)の当選同期の3人で「YKKトリオ」を組んだが、加藤と同様、首相ポストに到達しないまま引退した。
日本労農党―日本社会党の政治家・三輪寿壮(じゅそう)は、55年に左右社会党の統一を実現させた。社会民衆党の初代委員長に就いた安部磯雄もいた。東京専門学校(現早稲田大)教授を務めた。
野党暮らしに終始したものの勲一等旭日(きょくじつ)大綬章を受けている衆院議員の楢崎弥之助は、ロッキード事件やリクルート事件などで、疑惑追及の急先鋒(きゅうせんぽう)だった。「国会の爆弾男」の異名を取った。京都大を中退し、九州大卒だ。