さらに35年には、滝川教授と同様に「赤化教授」とされ、東京帝大で長く憲法学を教えていた美濃部達吉名誉教授が攻撃の的となった。
美濃部の「天皇機関説」は、統治権は国家にあり、天皇は日本国政府の最高機関の一部として内閣など他の機関の輔弼を得ながら統治権を行使するというものだった。美濃部は、国民の代表機関である議会は内閣を通して天皇の意思を拘束し得ると唱え、政党政治に理論的基礎を与えた。1920年代から30年代前半にかけて美濃部の天皇機関説は学会の通説となり、民本主義や政党政治、大正デモクラシーを支える。
だが、政党政治の不全が顕著になり、軍部が台頭して軍国主義の風潮が高まると、天皇を絶対視する勢力が再び力を持ち、天皇機関説への攻撃を強め国会を巻き込んでの右派の執拗な攻撃で政府も異説と認定するようになり、美濃部の著書『憲法撮要』など3冊は発禁処分になった。
言論封殺を加速させた要因は
大学内部にもあった
リベラルな思想を持つ教授らへの弾圧は、37年(昭和12年)の日中戦争開始でさらに強まり、東京帝大経済学部の矢内原忠雄教授、早稲田での津田左右吉教授弾圧事件へと続いた。
一連の異論の封殺、大学自治の崩壊は当時の政治情勢抜きには語れない。だがきっかけとなり、事態の悪化を加速させた要因は大学内部にもあった。軍部や右翼勢力の標的になる中で、六大学でもいくつかの大学で学内の対立と分裂があり、それが政府や軍部の介入を容易にし、大学当局が組織を守るために融和的な対応を取らざるを得なくなった。
滝川事件や天皇機関説事件の仕掛け人となった蓑田胸喜の台頭にもこうした要因が大きかった。彼には「大学教授思想検察官」との異名も残されている。
(文筆家、元朝日新聞記者 長谷川 智)