一方で22年(大正11)年に日本共産党が非合法で結成され、解散や再建を繰り返したが、大学では共産党の動きに影響を受けながら、左右の動きが活発になる。

 東京帝大で18年に発足した新人会は、「民本主義」を唱えた吉野作造・東京帝大教授を指導者に左派勢力として台頭していく。22年には早稲田や明治など他大学にも呼びかけて学生連合会(学連)を結成。マルクス・レーニン主義の学習や導入されたばかりの軍事教練に対する反対活動を展開する。

 国家主義的な動きもこの時期に台頭する。憲法学を教える上杉慎吾・東京帝大教授らは、新人会に対抗して興国同志会を結成。その後、興国同志会は七生社に名前を変え、天皇絶対主義を掲げて左派勢力と対立する。

右翼政治家や軍部が介入
異論封殺の“仕掛け”も導入

 こうした大学内での対立と内紛はその後、右翼政治家や軍部の圧力や介入を招く余地を作った。

 だが第二期には、すでに異論封殺の2つの仕掛けが動き出していた。第一は25年4月(大正14年)に治安維持法が公布されたことだ。ロシア革命で共産主義を掲げるソビエト連邦が誕生。君主制の廃止や私有財産の禁止を主張したが、日本では天皇制廃止、資本家や大規模地主を否定する運動となる。それに同調する人たちが知識人や大学にも広がり、政府は共産主義者を取り締まる法律を作り、運動を抑え込もうとした。

 29年(昭和4年)4月には共産党は「4・16事件」で339人が起訴され、壊滅的な打撃を受ける。

 第二は、陸軍の現役将校を学校に配属する法令が25年4月に施行され、学校で軍事教練が実施された。こうした流れの中で、第一期の自由民権運動の高まりの中で創設された六大学の自由な空気や大学の自治、学問の自由が浸食されていくことになる。