
三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第64回は、子どもたちのコミュニティにおける「保護者の位置づけ」について考える。
「保護者」と「先生」の絶対的な違い
ベテラン数学教師・柳鉄之介によるスパルタ指導により、洋服の上に「バカシール」を大量に貼る天野晃一郎。その姿を見た天野の母親は「なんてヒドい。これじゃまるで虐待だわ」」「学校には後から厳重に抗議します」と激高するのだった。
マンガ本編における天野母の怒りはもっともだが、世の中にはささいなことに怒りを感じ、学校に必要以上の要求をする保護者もいる。いわゆる「モンスターペアレント」だ。
つい先日、東京都内の小学校に不審者が侵入した事件が話題になった。この事件も児童間のトラブルに端を発するという報道もあり、モンスターペアレントとの関連性が指摘されている。
モンスターペアレントに関しては、学校と保護者という構造で論じられることが多く、もう1人の当事者である生徒目線にたった論考は少ない。かくいう私も、当事者や傍観者としてモンスターペアレントに関する大々的なトラブルに巡り会ったことはあまりない。だが、2023年までの小中高12年間を振り返ると、「友達の保護者」という存在は児童・生徒にとって独特で奇妙だと感じる。
その奇妙さを自分なりに解釈してみようと思う。
そもそも、子どものコミュニティにおいて「保護者」の存在がメンバーとして考慮されることは少ない。一方で、保護者に関する情報は、自虐的な要素を多分に含みながら頻繁にシェアされる。だからこそ「大人の事情で保護者が目立つ」ということは、それがモンスターペアレントに該当するか否かにかかわらず、子どものコミュニティにおいて異質であり、忌避されがちなことだ。
「友達の保護者」は常に「○○さんの親」という具体的な文脈で登場するため、全ての子どもと等距離な先生と違って「共通の敵/味方」というストーリーを構成しづらく、非常に厄介な存在だ。
子どもにも「子どもの事情」がある

誰かの保護者が「大人の事情で目立った」場合、子どもコミュニティがとるあまり良くない選択肢として、以下の2つが考えられる。
1つ目は、「ネタキャラ」として面白おかしく消費されることだ。さながら変わり者のような位置付けを付与することで、コミュニティの維持をはかる。ひどい場合には腫れ物扱いされる。
とはいえ、自分の友達の親をネタキャラ化するのは気持ちのいいものではないし、そもそも当の子どもに失礼だ、という認識が少なからずある。そのため、話題に上がりづらくなり、「暗黙の共通認識」として固定される。この葛藤は子ども独自のものだろう。
2つ目は、「仲良しグループ」維持のために、コミュニティから切り捨てることだ。当然、そもそも部外者である保護者を排除することはできないわけで、排除されるのは子どもだ。
いずれにせよ、「目立つ保護者」は、目立つ理由がなんであれ、子どもコミュニティにおいて敏感に扱われる。
そして、最も厄介なことに、それらの情報は尾ひれがついた状態で、大人には見えづらい範囲で拡散していくのだ。
「大人の事情」があるということは、子どもにしか理解できない感覚に基づく「子どもの事情」もある。言語化するのが難しい以上、学術的には考察しづらく、体系化できない部分があるだろう。安易に子どもに迎合するのは考えものだが、子ども社会において自分がどのように扱われているのか、というのは保護者にとって重要な視点なのかもしれない。

